「産みの親」より「育ての親」の理由

【茂木】普段われわれはゴリラやチンパンジーたち類人猿よりも自分たちのほうが高次な存在として考えています。だけど京都大学の霊長類研究者は伝統的に人類を相対化して、親戚同士のように捉えている。だから人間の規範を絶対視しない。その見方はとても興味深いですね。その視点から見たときに親子の関係や親という存在はどんなものなのでしょうか。

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遺伝子的にヒトとゴリラの違いは2%もない

【山極】哺乳類には生物学的な父親はいますが、社会的な父親は必要ありません。子どもを育てるのはメスだけで、オスは種付けして去っていく。ゴリラの場合は家族がいます。オスは子どもを保護し、子ども同士が喧嘩になればその仲裁もする。それができるオスがメスと子どもの双方から信頼されることで父親として認められる。人間社会の場合はもう一段階加わって、男が父親になろうとするだけではだめ。社会からも父として認められる必要がある。

だから父親というものは、文化的なものなのです。この父親というものが成立したことで、母親もまた文化的なものになった。人間の親子は文化的なものといえます。だから生物学的な血縁関係がなくても成立しうるのです。

【茂木】サルにおける近親相姦の忌避も、実際の血縁関係ではなくて、成育のときにどれだけ一緒にいるかということが関係してくるそうですが。

【山極】そうです。バーバリーマカクというサルは自分の子どもを見分けられないけど、自分の手で育てたメスとは交尾しないことがわかっています。

【茂木】人間社会の家族の源流はそのあたりにあるのかもしれませんね。

【山極】そうやって父親という存在は生まれたのですが、最近心配なのは、子どもは欲しいけど父親はいらないという女性が増えたことです。父親という存在を女性が厄介に思い始めた。少し前まで夫婦というのは、女性が男性とペアを組んだ段階で、男性側の友達まで受け入れていた。職場の同僚を家に呼んで飲み会をしたりしていたわけです。その大きくなった集団の中で母親は子育てして、自己実現を図るというのがもともとの女性のストラテジーだった。現在ではITの発達や、女性の流動性が高くなったことで、いろいろなところで女性独自のコミュニティを組めるようになった。