実は、駆け出し時代に東京支店で一緒に働き、長野で担当を引き継いだ後輩が、当時、本社で商品の配分量を決める部署にいた。電話をかけて頼めば、『スーパードライ』をもっと回してもらえたかもしれない。元部下も「それを、覚悟していた」という。でも、電話は、最後まで鳴らない。元部下は「あの人は、自分のところのことだけを優先する人ではなく、会社全体のことを考えていたのだろう」と振り返る。

毎夕、次長が課単位で決めた配分量を、さらに地域担当者ごとに割り振る作業が終わると、9時から10時になる。でも、課の全員が待っていた。「じゃあ、行くか」のひと声で、夜の街へ繰り出す。酒に強くない内勤の女性たちも、参加した。

その女性の1人が、社長就任の内定が発表された06年2月10日、携帯電話へかけてきた。記者会見の最中で慌てたが、「荻ちゃん、おめでとう」のひと言が、とてもうれしかった。キリンが販売シェアで肉薄していたころで、記者の質問も、そこへ集まっていた。「他社のことやシェアに目を奪われると、やるべき仕事ができなくなる。ビール会社としてつくり上げてきたことを、ひたすらやり遂げるのが一番の任務」。そんな抱負が、自然に口から出た。

福岡へは単身赴任だった。毎晩、部下が担当する店に3軒ほど付き合い、午前様が続く。翌朝、2日酔いで出勤し、仏頂面をみせる。でも、夜には、笑顔に戻る。酒席では、ビールを注いで回る。一人ひとりの話を静かに聞きながら、足りないものがないかどうかに、目を配る。それは、取引先に対してだけではない。部下たちにも、同じだ。

「桃李不言下自成蹊」(桃李言(ものい)わずして、下、自ずから蹊(みち)を成す)――桃や李すももの木は物を言わないが、美しい花を咲かせ、美味しい実をつけるから、人々が集まって、木の下に自然に道ができていく。紀元前1世紀に司馬遷が著した『史記』の中で、漢の時代の軍人・李広を評して記した言葉だ。李広は、無口、無欲で、恩賞はすべて部下に分けてやった。食べ物や飲み物も、全員に行き渡るまで口にしなかった。部下たちは、そんな将軍に強い敬意を抱き、死をも厭わぬ覚悟で戦に臨んだ。