乗ることが楽しい特急列車の発案

1953年4月、大阪で生まれる。父は工場勤務の会社員で、労組の役員や市会議員を務め、兄が1人いる。府立三国丘高校で柔道部に入り、すぐに二段を取得。得意技は内股で、京大法学部でも全国大会に出場した。77年4月に国鉄(現・JR各社)へ入社、東京北鉄道管理局の営業部総務課職員係に配属された。合理化を巡って労使が激しく対立し、ストが続いた時代。入社2年目で団体交渉要員となり、貨物の隅田川駅、本社貨物局で、その最前線に立つ。

思い出深いのは、国鉄の分割民営化で九州に残り、営業部販売課で手がけた新設列車の数々だ。阿蘇山とSL列車を、子どもたちに楽しんでもらおうと生み出したSL列車「あそBOY」は、阿蘇地域で「遊ぼうよ」の意味で「あそぼーい」と言うことも考えたが、一帯が米国の西部劇の映画に出てくる光景と重なり、先々に「アメリカ村」のようなテーマパークをつくりたいと思い、「子どものアメリカ」との意味を込めた。

続く特急「ゆふいんの森」は、地元温泉のカリスマ経営者たちの助言を受け、命名した。かつて由布院町が湯平村と合併した際、双方の字を足して湯布院町(現・由布市)となった。温泉名はそれぞれ由布院、湯平のままだったが、国が国民保養温泉地に指定した際に湯布院温泉と呼んでしまう。

そうした経緯を踏まえ、由布院と命名しようとしたら、何度も通って由布院温泉が目指す姿を聞いていたカリスマ経営者たちが「待ってくれ。それでは、湯平温泉が怒る」と言うので、再考した。結局、平仮名にすることに決め、地域が欧州風の高原リゾート地を目指していることも考慮して「森」も加える。無論、このときも、最後には「不謀於衆」で締めた。

社内に、車両を民芸風にして、こけしを置き、囲炉裏を切る案があった。だが、意見が分かれ、最後は高原リゾート地を目指す点を指摘して「もっと、おしゃれにしよう」と裁定する。外観を緑にして、乗った瞬間、木の温もりがあるインテリアが目に入り、目的地の雰囲気を感じ取る。客室乗務員が観光案内をしたり、運転手と同じ帽子をかぶって記念写真を撮ったりして、もう旅が始まる。座席も高めにして、見晴らしもよくした。乗ること自体が楽しい、そんなコンセプトに決めた。

2009年6月に社長に就任、この6月に会長となる。社長在任の5年間も「不謀於衆」は続く。様々な経験を通じて「やればできる」の信念は固い。次号で触れる「安全創造」でも、豪華寝台列車「ななつ星 in 九州」の誕生でも、それは同じだ。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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