次は、自ら「遅筆堂」と名乗った作家、井上ひさしが締め切りに間に合わないことをどう詫びたかというもの。

当時、書き進めていたのは『東京セブンローズ』(「別冊文藝春秋」)である。文頭のT様は編集者の名前。日付と時間に注意して読むといい。

T様 91年11月20日 午前3時05分

FAXをいつもありがとうございます。お忙しいのにすみません。資料に読みふけったり、今日、届いた『広辞苑第四版』を眺めたりしながら書いていますが、これからはいっそう禁欲して集中いたします。3日(注『東京セブンローズ』本文の昭和21年1月3日のこと)は『天皇の人間宣言』です。よろしくお願いします。小生はこれから自分で唯一できる料理(スパゲティですが)をたべて腹ごしらえをいたします。
井上ひさし拝

T様 91年11月20日 午前6時32分

スパゲティをつくっている最中に、かみさんが産気づきました。午前4時近くに破水と陣痛がおこり、あわてて病院に連れて行きました。いま6時半です。少し寝て、また原稿にとりかかります。ほんとうにすみません。
井上ひさし拝

T様 91年11月20日 午後7時33分

枚数その他、いろいろと御高配ありがとう存じます。午後4時ちょうど、3.260キロの男子が生まれました。母子ともに健全です。午後7時に帰宅。もう、なんにもわずらわされずに原稿が書けます。午前3時前後に送稿いたしますので、なにとぞよろしくおねがいいたします。
井上ひさし拝

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(読売新聞/AFLO=写真)

子どもが生まれそうなときでも締め切りを厳守するため、夜通しで働く作家の切実な生活が浮き彫りになっている文章である。

しかし、ここまで丁寧なファクスを送る前に、1行でもいいから原稿を書けばいいじゃないかと思ってしまうのは私だけだろうか。それにしても、この文章は誠実でしかも礼儀正しい。そのうえ、出産というドラマが加わり、何とも言えないユーモアが漂う。

思うに、人に何かをお願いする場合の文章にはここにあるような誠実さと礼儀正しさ、加えて丁寧な言葉遣いが肝要なのではないか。

(PANA、読売新聞/AFLO=写真)
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