ある日のことだった。府中支店に、ある人から「河野さんいますか」と電話が入ったのである。かけてきたのは桜ヶ丘で工務店を営む社長だった。営業先にいた河野が知ったのは、公衆電話から支店に連絡した時である。携帯電話のない時代だったから、客は営業マン本人ではなく、支店に連絡をしてきたのである。

現在、ヤナセ世田谷店の副店長を勤める「メルセデス・ベンツを日本一売る男」河野敬さんは語る。

「伝言は『カタログを持ってきて』でした。ほんとに嬉しかったですね。2か月間、歩き回ってやっと反応があったわけですから。

次の日、工務店にカタログを持っていって、少し営業トークをしました。何を言ったかはよく覚えていません。『車を見てみたい』とのことでしたから、先輩と一緒にお客さんが欲しがっていたのと同じ型のベンツに乗って訪問しました。

私はもう何も言えなかった。全部、先輩がしゃべってくれました。そうしたら、買うっていうんです。注文が取れたんです。その夜、先輩から飲みに行こうと誘われたけれど、うちに帰ったと思います。

翌日の朝礼で支店長が、新人の河野くんが飛び込みで1台売りましたと発表してくれたのはよく覚えています。あれは嬉しかった。会社のなかでも、飛び込みで売った車は特別なことと受け止められていたんです」

1台を売ってから、彼は人が変わったようになった。やる気が出て精力的に回るようになり、結局、入社した年、河野は35台のベンツを売ることができた。そのうち、10台は飛び込みである。ただし、自信がついてからは多少、売り方を変えた。軒並み訪問も続けていたが、売れそうな感触を覚えた家には何度も出かけていった。主がいなくとも名刺を置き、パンフレットを置いてきた。自分で売り方を考えられるようになったのだから、セールスマンにとって、最初の1台を売ることがいかに大きなことかわかる。