昭和の時代には「自分探し」はなかった
最近では、多くの親や教師が子どもに「早くやりたいことを見つけなさい」というようになり、「やりたいこと」がある学生や若手企業家をうらやましく思っている大学生も多いようだ。
こうした「自分探し」は、実は平成に入ってから広まった概念のようで(※1)、朝日新聞社のウェブメディアの過去記事で「自分探し」が増えるのは1994年頃からとされている(※2)。
日本の学生は、新卒一括採用で4月に一斉に社会人になることが一般的で、「自分がやりたいこと」が何かがわからないまま、社会に出る学生も多いはずだ。
しかし、結論を先に言えば、「やりたいこと」が無くても心配はいらない。なぜなら、世の中で「やりたいことがある」のは少数派だからだ。
※1 「“自分探し”類型化の試みとそれぞれの特徴について」中間玲子(2008)
※2 withnews「『自分探し』平成で定着 『解放』の尾崎豊から『探求』のミスチルへ」(2019年3月25日)
筆者が企画・設計・分析を行っている「街の住みここちランキング」は毎年、全国から約18万人の回答を得ている大規模なアンケート調査に基づいているが、そのアンケート項目には、「人生でやりたいこと」があるかどうか、という設問が含まれている。
その「人生でやりたいこと」があるという設問にyesと回答したのは約25%しかいない。
「やりたいこと」を探すのは本当に大切なのか
功利主義の創始者として有名なジェレミ・ベンサムは、「人は快楽を求め、苦痛を避ける」としている。
「やりたいことをやる」のはいわば快楽を求めていると言え、苦痛を避けるとは「やりたくないことをやらない」ということになるだろう。
学生に限らず、多くの人には特別にやりたいことがあるわけではないようだが、逆にやりたくないことを列挙するのは簡単だろう。
例えば、人に気を遣うことはいやだ、お金の心配ばかりするのはいやだ、ストレスの多い長時間労働はいやだ、掃除するのがいやだ、勉強するのはいやだ、運動がいやだ、などやりたくないことはだれでも簡単に列挙できるだろう。
もちろん、「やりたいこと」だけをやり「やりたくないこと」を一切やらないというのは理想だろうが、人生はそんなに簡単ではない。しかも「やりたい」わけではないが、「やりたくない」わけでもないことは多い。
だとすれば、「やりたいこと」を探すよりも、できるだけ「やりたくないこと」をやらなくてもいい環境を整えることも大事なことだろう。