【前編のあらすじ】関東地方在住の山車依子さん(仮名・60代)は一人っ子として育った。遊び人の父親は家庭を顧みず、母親は父方の家業の靴屋の切り盛りで忙しく、家ではほとんど祖母と二人きり。
10歳の時に父親の不倫とそのせいで作った借金が原因で両親が離婚し、母親と2人で暮らした。離婚から約2年後、母親は再婚。継父を含めた3人で暮らし始めたが、山車さんが高2の時に継父と合わなくなり、実の父親の家へ。
20歳で社会人になり、26歳の時に結婚したが、夫の自分本位な言動に絶望し、33歳で離婚。その後、38歳で再婚すると、40歳で母親と暮らすため一戸建てを購入し、呼び寄せた当時79歳の母親の様子がどうもおかしい。心の片隅で認知症を疑ったが、認めたくない気持ちが強かった――。
認めたくない現実
関東地方在住の山車依子さん(仮名・60代)に、認知症の傾向がみられるようになった母親(79歳)を病院に連れていくように勧めてくれたのは、介護職に就いていた叔母(母親の妹)だった。
叔母は久しぶりに母親と会ったところ、母親の様子が「以前と違う」と言う。病院を受診すると、アルツハイマー型認知症と診断。要介護認定を受けると、要介護1と認定された。
山車さん夫婦は共働きで日中家におらず、たびたび出張や旅行で家を空ける機会が多かった。そのため、週2回のデイケアやショートステイを利用し始める。
「診断や認定を受けたことで、それまで母の奇妙な行動を『性格だよ』と言い張っていた夫もようやく思い込みを認め、母の生活には周囲の協力が必要だと多少は対策を考えるようになりました。しかし私たちは、母の言動が割としっかりしていたこともあり、十分な配慮や勉強を怠りました」
母親の足がふらついているのに、「歩かないと弱ってしまうから」と一人で近くのスーパーに行かせたり、立ち上がるときに手を貸さなかったり。「訓練すれば症状は進まない」「甘やかすとどんどんできないことが増える」と言い、母親の日常生活の負担をあえて放置。
「母はもともと甘えたがりの性質でしたが、ただ甘えているのと本当に助けが必要な時は見極められたはずです。私は日々の忙しさにかまけて、母の衰えにまっすぐ向き合おうとしなかったのです。夫も、『認知症だからと甘えさせてしまうと、どんどん進んでしまうから普通に接したい』と言っていて、時に夫が母をキツく叱りすぎている時でも、母を庇ってあげられませんでした。できていたことができなくなり、『どうしてやっちゃったんだろう』と戸惑いを口に出すことがあったにもかかわらず、責めてしまっていました。それがどんなに母を苦しめていたことかと思うと、自分がしてきたことながら悔やまれます」
山車さん夫婦が厳しく接すれば接するほど、母親は自ら活動することを嫌うようになっていく。自分の部屋にこもりがちになり、そのせいで認知症の症状を進めてしまった。
「母が自分で自分のことをできなくなりつつあることを、私自身が認めたくない気持ちもありました。おそらく、母が認知症を発症してから数年あったはずです。もっと早く病院を受診していれば、もっと母を理解していれば、母はもう少し元気でいられたかもしれません」