「モノ」なき時代の申し子
ヨーカドーの前身である「羊華堂洋品店」は1920年、東京・浅草に誕生している。創業者は吉川敏雄で、後にヨーカドーを立ち上げる伊藤雅俊の叔父にあたる人物。太平洋戦争ののち、この洋品店を引き継ぐ形で、雅俊は足立区・千住で羊華堂の事業を再開する。
太平洋戦争後の1948年に法人化して、1965年に株式会社・伊藤ヨーカ堂を設立。1971年に、店名をイトーヨーカ堂とする。折しも日本は高度経済成長期の只中にあり、その中でヨーカドーは出店攻勢を続け、大きく営業を拡大していく。1970年代には業務提携に積極的に動き、日本各地のスーパーと手を組む。こうした提携を通して、特に関東、東北、北海道にその店舗を集中させていくやり方で成長を重ねていった。
こうしたヨーカドーの成長の秘訣は何だったか。
一つは、ヨーカドーの持つGMSという形態自体が、日本の高度成長期に合致していたことだ。そもそも、総合スーパーが必要とされたのは、まだまだ戦後日本が復興途中でモノの供給量が少なく、一箇所にさまざまな種類の商品が集まっていることに大きな価値があったから。個人で車を所有する人も少なく、今のようにロードサイドを走ってさまざまな店を回ることも出来なかった時代に、「そこに行けばなんでもある」ことが大きな魅力だった。
「なんでもあるが、買いたいものがない」
しかし、時代が移り変わり、いわゆる「カテゴリーキラー」と呼ばれる単一商品を扱うチェーンストアなどが多く出店をはじめる。「ヤマダデンキ」をはじめとする家電量販店や、「ユニクロ」をはじめとする衣料品店などがそれらにあたるだろう。商品の質も、それぞれ単一品種に特化しているからそちらの方がよく、当然、人が流れる。
こうした流れの中で、総合スーパーは「なんでもあるが、買いたいものがない」と揶揄されるまでになってしまう。食品から衣料品、雑貨まで多種多様なものが一つの場所で手に入ることがGMSの強みではあったが、逆にそうした総花的な品揃えが裏目に出たわけである。まさに商品種類における「選択と集中」が適切に行われないがゆえに、GMS自体の苦境がある。