プロで活躍する選手は「ずば抜けているんです」
その「一つの目標」に向かって、大阪桐蔭では3年時に甲子園春夏連覇、亜細亜大でも5度のリーグ優勝に2度の日本一と、これ以上ない形で学生野球を終えることができた。大学入学時までは、将来のプロ入りを目指していたが、1年生で唯一選出された大学日本代表で、吉田正尚(レッドソックス)や中村奨吾(ロッテ)ら、後にプロで活躍するメンバーとの埋めがたい実力差を感じたという。
「現実を知れたという感じで、そこで正直プロは諦めました。プロで活躍する選手は、何か一つ秀でたものがあって、それがずば抜けているんです。僕はすべてを満遍なくできるようにと思ってやってきたので、どれも中途半端だと思いました」
野球人生で初めて味わった挫折を機に、夢はプロ野球選手から起業家へと傾いていった。
「プロ野球選手は、好きな野球を続けられるということもそうですけど、やはりお金を稼げるというのが一番の魅力だと思っています。プロ野球選手になれなかったらどうしようと考えた時に、それより稼ぐしかないという思考になって、ゆくゆくは起業したいという思いになりました」
野球と営業の二刀流で大活躍だったが…
それでも、大学日本代表にまで選ばれる逸材を、社会人野球企業が放っておくはずはない。大学卒業後は東邦ガスへと進み、野球をやりながら、お金を稼ぐことのありがたみを学んだ。
「一番の青春でしたね。会社を背負って、お給料をもらいながら野球をやっているので、勝った、負けたに責任が生じるなと感じていました」
基本的な勤務体系は、午前に仕事をこなし、午後から練習。試合が近くなれば、出社はせずに朝から練習をする。その代わり、オフシーズンは朝から働いた。当時はガスと電力が自由化になるタイミングで、営業部だった水本さんは、電力の販売をメインに外回りをし、ノルマに対して300%ほどの売り上げを達成したこともあるという。
「いきなりピンポンを押してという感じの飛び込み営業でしたね。営業成績は野球部でもトップのほうだったと思います」
ただ、営業成績がよくても、出来高等で給与に反映されることはなく、年収は初年度の350万円から、退社前の7年目で600万円ほど。アマチュア野球最高峰の大会である都市対抗に出場すれば、冬のボーナスでは加算ポイントが入って支給されたが、そこまで大きい額ではなかった。
水本さんは野球部に5年在籍。右膝靱帯損傷の怪我から完全復活し、これから活躍が期待される時に、自ら引退を申し出た。2021年、26歳の冬だった。