酒もタバコも「寿命を縮めるため」
話を戻します。
新担当になったばかりのケースワーカーは、訪問した際のやりとりを私に聞かせてくれました。
相手は20代後半の男性で、4年ほど生活保護を受けながら暮らしているそうです。
精神科通院歴があり、福祉事務所による医院への病状照会によると、うつ病の診断は出ていますが「部分的な就労は可」との意見が出されていました。
「就労はなさっていないということですが、お身体はどうですか?」
「悪いっすね」
「お仕事はなさらないんですか?」
「それ、前の担当にも言われたんですけど、そんな気になれないです。なんのために働くんですかね、なにをがんばればいいんですかね、もうわかんないっす」
ゴミに埋もれる居室内には大量の酒瓶が転がっていたといいます。
「お酒を飲まれるんですか?」
「飲みますよ。タバコも吸いますよ。寿命を縮めるためです。税金で生かされていることくらい自分でもわかってます。社会にとって迷惑な存在なのもわかってます」
「……そんなことないですよ」
困って口から出たケースワーカーの「そんなことないですよ」に、彼は小さく笑ったそうです。
「生きていたい」という気持ちが感じられなかった
私は事例の相談を持ちかけられたときには、必ずどんなやりとりが行われたのか、こちらが言ったことに対する相手の反応はどうだったのかの内容を細かく聞き取ります。ここから心理背景を読み取れるからです。
ケースワーカーは、彼と話したときのことを思い出しながら「なんだか、投げやりというか、どうしていきたいとかの希望がないというか、そんな感じがしました」と言いました。
これには私も同感でした。
単なるうつ病であれば、もう少し「ちゃんと生きていきたい」気持ちが伝わってくるはずです。しかし、そう生きられないから苦しむのが、この病です。「思い描くように生きていきたいけど、そうは生きられない」という二律背反があります。
一方で彼の場合はというと、その「生きていきたい」前提が希薄か、もしくはないに等しくて「生きられない」「生きていたくない」が一人歩きしているかのようです。正直に言うと、こういう訴えを聞くと私はカウンセラーとして危険を感じます。それはなにかというと、自死の危険です。うつ病の中でも重い部類に入ります。
カウンセリングなどの相談には基本的に、苦しみを抱えながらも、どうにかして生きていきたい、人生を変えていきたい、と思う人が訪れます。考えてみれば当然で、相談しに来ること自体が人生の解決を欲していることの表れだからです。
しかし「生きていきたい」前提がないと、そもそも相談に訪れる理由もないのです。なおかつ、いくらこちらが助けたい一心で近づいても、その気持ちが届かずに肩透かしを食らうことがあります。繰り返しますが、そんなこと欲していないし、生きていきたいと思っていないのだから当たり前なのです。
少々話がそれますが、こうした人(うつ病が重症化した人)の場合は、端から自殺予防の対策網に引っ掛かることすらありません。
私が感じていた危険と同じことを、ケースワーカーも感じていたようです。