「ハレの日」にしか会わず、生活実態が分からない
PKさんの叔母夫婦の場合、叔父が倒れて以来、親の様子を確認するための電話が2日に一度はあり、また、親の自宅改修のための費用も、文句も言わず出してくれるような息子たちだから、親に関わる気がない薄情な子どもたちではないと、PKさんは言う。
にもかかわらず、息子夫婦は「草ボウボウ」の庭に、何の反応もしていない。目標を定め、指向し、焦点を定めなければ、物事は見えてこない。老い衰えた親の暮らしを支えねばならないとの意識が子の側に弱ければ、親の暮らしを観察するセンサーも働かず、見ても見えざるという関係がつくられる。
そうした、子の側の親の暮らしに対する指向性がないのが、かつての時代と異なる「子ども中心」「教育中心」で育てられてきた、長寿期の親と子世代との関係ではないのか。
子ども、とりわけ長男が「家」の「跡取り」として親の老後の面倒をみることを期待されたかつての時代と異なり、「私たちの老後のことなんか心配しないでいい」「自分がやりたいことをしなさい」と送り出されたのが、いまの中高年子世代だからである。
また、女性の意識も変わり、「嫁」として夫の親に対するケア義務を持たねばならないと考える人たちも少なくなっている。
さらに、子どもたちに親を思う気持ちがあっても、離れて暮らす場合の交流の機会は「年に2回ほど」。それも盆や正月の「ハレの日」、さらに家族旅行や、イベントの日の会食のつき合い。お互いに元気で頑張っている明るい姿を喜び合う場で、個々人の悩みや困りごとを語ることは、「場違い」のこととして控えられる。