表面的な関係では弱みをさらけ出せない

その理由がよく納得できないまま、PKさんもいろいろ聞いたそうなのだが、その結果、次のような結論に達したのだという。

【PKさん】「どう言ったらいいかよくわからないけど、まあかたくなな、変な思い込みよね。だから、どうにもならない。思うに、子どもが小さい頃から、親子のコミュニケーションがなされていない。だから、いいところだけの表面的な親子関係で、本音が言える関係にはなっていないんでしょうね。弱みをさらけ出すことができない」

OZさん親子の場合と同様、ここでも親側が、「子どもの世話にはならない」「迷惑をかけてはいけない」と、子どもに実情を伝えず、助けを求めることをためらっている。

だが、長寿期ともなれば、子どもの側が、親は食事を毎日とることができているか、住まいは清潔に保たれているかなどと気配りをし、暮らしの実情を探り、必要なら支援の手を差し伸べるべきで、それが親子というものではないかと、そう考える人が多いのではなかろうか。

悪意のない「見て見ぬふり」

PKさんの叔母夫婦と息子たちの場合、倒れるまでの親子関係はどのようなものだったのだろうか。聞いてみると、全く交流がなかったわけではなく、親がまだ若く元気な頃からの関係が、恒例化する形で続いていたようなのだ。

その点に関しての、私とPKさんとのやり取りを続けよう。

【春日】「5年前ぐらいに、叔母さんのことが気になり始めていたと言われましたが、その間、叔母さん夫婦と2人の息子さんの家族との間の交流はなかったんですか」

【PKさん】「いやいや、叔父はコロナの流行が始まった年に倒れたんだけど、その前の年までは年に2回、長男夫婦も次男夫婦も、1泊2日で親たちと一緒に旅行に行っているの。旅行の帰りに叔母夫婦をその自宅に連れて帰るという形でね。

だから、わかっていていいはずなの。長男夫婦も次男夫婦もね。庭が草ボウボウとか、何かしらの変化を。夢にも気がつかなかったの? ほんとに? という感じなのよ。不思議よねえ。2人の奥さんたちも見ているのだから、誰かが気づいていいと思うの。あとで思うと、突然そんなになるはずはないのだから。なんで気がつかなかったのかなあ」

頭を抱えている高齢者
写真=iStock.com/Kayoko Hayashi
※写真はイメージです

子どもたちが玄関先で帰ったのだとして、「草ボウボウの庭」を目にしたはずなのに、なぜ、それに気がつかないのだろうか。気がついていながら、面倒ごとに巻き込まれるのが嫌で、見て見ぬ振りでやり過ごしたのだろうか。

その点に関しても、いくつかの要因が複雑に絡まり、悪意がなくとも、「見れども見ざる」の現実が生じるのが、現在の高齢の親と成人した子の関係なのではなかろうか。