安倍は退陣の3カ月後に「文藝春秋」(08年2月号)に寄せた「わが告白 総理辞任の真相」と題する手記で、「すべてのマスコミが私が総理の座を『投げ出した』と報じました。……しかし実際の私の胸中は『投げ出した』とは対極にあります」と書き綴っている。「投げ出した」のではなく、ぎりぎりのところまで走り続け、もうこれ以上は無理となって、ばたっと倒れるように辞任したと言いたかったようだ。
実際は参院選大敗、政権運営の行き詰まり、国民の離反、病気という4つの要因の複合型の辞任だったが、国民の目には唐突な投げ出しと映った。小泉純一郎首相の下で促成栽培で育成されたひ弱な3世政治家の挫折という評価が定着した。
再起は困難との見方が支配的だった。影響力や存在感は急減した。しばらくは体調も十分でなかったが、寄りつく人もいなくなった。後日、安倍は「政治家として地獄を見た」と振り返ったが、そんな失意と零落の日々を送った。
そこから立ち上がり、雌伏5年の後にトップリーダーとして蘇ったのである。
大阪維新の会が練ったドリームチーム
09年8月、総選挙が行われた。退陣後に迎えた初の選挙だ。1990年代以来の同志の衛藤晟一(現参議院議員)が「苦境下の安倍」の姿を打ち明ける。
「当選が危ないと考えたと思う。元首相だが、自分の選挙区中心に戸別訪問、ミニ集会に徹して歩いた。普通はそこまでできない。病気で辞めたことについて言い訳はできないし、大変だった」
この総選挙では半年前にローマでの国際会議で醜態を演じて財務相を辞任した盟友の中川昭一が落選した。「無様な退陣劇」から日が浅かった安倍が「落選の危機」におびえても不思議はなかった。
総選挙で当選を果たした安倍は、翌10年からじわりと行動を開始した。東京14区選出の松島が思い出を語る。
「私の選挙区の中小企業を見学に行くので、一緒にと声をかけてくれた。元首相でも、安倍さんは10人くらいの製造業の会合に気さくに出かける。それが自然にできる人です。昔と変わらない」