日本国憲法第二十五条「生存権」
極論すれば、金銭的問題だけの話なら、借金を積み増すとかそういった方法で当座やりすごすことは可能だったかもしれない。しかし人的リソースの問題はどうすることもできない。借金をこさえてお金をいくら刷っても、結局のところそれを受け取って働いてくれる人がいなければただの紙切れにすぎないからだ。
かりに介護サービスを本当に「権利」として考えるなら、いったいなんの法的根拠に基づいていると判断するだろうか? この問いを考えるとき、ただひとつだけ、恐ろしい可能性がある。
それはもしかして、日本国憲法・第二十五条でいう「生存権」なのだろうか。
〈日本国憲法 第二十五条〉
1.すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2.国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
1項は世の中のさまざまな場面で引用されているから世間的にも知名度は高いだろうが、しかし意外と2項については知られていない。だがこの条文でもっとも重要なのはこちらのほうだ。そう、2項はまさに医療や介護を含む社会福祉・社会保障の向上と増進を国に義務付けるものなのである。
日本国憲法第二十五条2項が、介護サービスを「権利(生存権の2項の範囲)」とし、またこのサービスの縮小や解体を「権利侵害」であるとする国民的世論が高まってしまえば(その主張を国が受け入れてしまえば)、国はかなり強い効力をもって「権利保障」に動くことになるだろう。
介護リソースの決定的崩壊を避ける「最終手段」
ではその「権利保障」とやらは具体的にどう行われるのか。たとえば本サイトに7月に寄稿した記事で述べたような、介護もしくはそれに類する福祉領域に対する若年労働者の大規模動員いわば「徴介護」がその方法のひとつとして挙げられる。
これから十数年以内に確実に全国的に発生する医療・介護の圧倒的な需要超過(供給不足)に直面したとき、圧倒的な人口マス層であり政治的影響力の強い高齢者層がそれを「生存権の侵害だ」と本気の大合唱をしたなら、自己負担増やサービス利用を諦めてもらう方向へとゆるやかに傾きつつある現在の潮目は一気に変わってしまう可能性はある。ロジック的には「理」を通せる道筋はあるからだ。
もっとも、ここで書いたシナリオは私の想像あるいは杞憂にすぎない。
杞憂もしくは勝手な妄想で終わってほしいと願ってやまない。