4人の貴族が献上した舞姫とお付きの者たちを一条天皇も見る

舞姫は内裏の北の朔平さくへい門・玄輝げんき門を通って、常寧殿じょうねいでんに設営された五節所ごせちしょに入る。里内裏でも、北門を内裏の各門になぞらええ、五節所まで筵道が敷かれる。舞姫は几帳に囲まれたなかを歩くが、当然けて見える。

舞姫一行の参入を、一条天皇も中宮殿舎にやってきて御覧になる。道長も、女房たちも胸をときめかしながら見守る。この年の舞姫献上者は、参議右中将藤原兼隆、参議侍従藤原実成、尾張守藤原中清なかきよ、丹波守高階業遠たかしななりとうの4人だった。各舞姫1人に、かしづき女房が6~12人、童女どうじょ2人、下仕しもつかえ2~4人、他に樋洗ひすましなどが付き従う。

兼隆の傅たちは申し分ない。樋洗の2人も田舎びて整っている。実成の傅たちは、現代的で趣があり10人いる。業遠の傅たちは、錦の唐衣からぎぬに衣装を幾重も着て身動きも取れない。中清の傅たちは、背丈も同じにそろってまことに優雅で奥ゆかしい、と続く。

なお、うし日の夜、舞姫全貝がそろうと、常寧殿に設置された帳台で帳台試ちょうだいしとよばれる、いわば舞合わせをするが、『紫式部日記』には記載がない。

皇子を得て絶頂期の道長、紫式部も女房仲間と共に見物する

翌日の寅日(11月21日)は、天皇の前で予行演習をする御前試ごぜんしで、中宮彰子は清涼殿せいりょうでんに行き、天皇と一緒に見る。紫式部たち女房も道長にせかされて、清涼殿に行き見る。中清が献上した舞姫は、気分が悪いと退出していく。若い殿上人たちは、もっぱら五節所のみすなどの調度品や傅たちの髪や物腰などの噂話うわさばなしにあけくれる。

かからぬ年だに、御覧の日の童女の心地どもは、おろかならざる物を、ましていかならむなど、心もとなくゆかしきに、歩みならびつつ出で来たるは、あいなく胸つぶれて、いとほしくこそあれ。さるは、とりわきて深う心よすべきあたりもなしかし。

の日(11月22日)の童女御覧を記した紫式部の感慨である。

現代語訳「例年でさえ、御覧の日の童女の気持ちは並大抵なみたいていでないのに、今年はどんな気でいるのだろう、と気がかりだったのに、童女たちが並んで歩いてきた様子は、胸が締めつけられ、可哀想かわいそうである。といっても、とりわけ深く心を寄せなければならない筋合いでもないのよ。」

伝・谷文晁筆「紫式部図」、江戸時代(東京国立博物館蔵、出典=ColBase)を加工
伝・谷文晁筆「紫式部図」、江戸時代(東京国立博物館蔵、出典=ColBase)を加工