他人に振り回されず、自分を持っている人は何が違うか。精神科医の和田秀樹さんは「逃げるのが上手な人は、『自分軸』で生きているから、自分の気持ちが明確で他人にコントロールされづらい。自分軸を取り戻すには、『私は』という主語を明確にするといい。もしも、自分軸がわからなくなったら、『私はどうしたいの?』と声に出して自分自身に質問してみるのが効果的だ」という――。
※本稿は、和田秀樹『逃げる勇気』(自由国民社)の一部を再編集したものです。
「村八分」=死を意味していた江戸時代
人間はソーシャル・アニマルといわれ、個人として存在はしていても、絶えず他者との関係によって成り立っています。
夏目漱石の小説『草枕』の冒頭には、次のような一節があります。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
漱石の時代に限らず、どんな時代でも人間社会でストレスなく生きていくのは難しいものです。
かつて日本には、「家」と「ムラ」という強い共同体がありました。
江戸時代は、掟や秩序を破った者に対して、「村八分」という自治的な制裁行為を科しました。地域内の住民が結束して、掟を破った者に対して、罰金・絶交・追放といった制裁を科すのが正当化されていました。
これによって水源利用ができなくなれば、孤立して、その社会では生きていけなくなります。それは死を意味します。
しかし、現代は、共同体が存在する意味が大きく変化しました。
村八分の残りの二分である葬式と火事においては、どちらも共同体の存在はもはや必要ありません。
消防は行政が取り仕切り、葬儀は民間の会社が取り仕切り、火葬は行政が行います。これがいわば「孤立」を支える集合的インフラが整ったということです。
核家族化が進み、家のしきたりはほぼ存在せず、墓じまいに困っている人の声が聞こえてきます。