未来のことがどうでもよくなるのは「当たり前」
かれらからすれば、この国の行く末とか、将来世代の暮らしとか、そういう「未来の課題」のことなど、どうでもよいのである。なぜならそこに自分が「関与」できなかったからだ。繰り返し断っておくが非難しているわけではなく、そうなるのが当たり前だ。
このレポートに対してのSNS上の反応を眺めていると「『こどおじFIRE』とでもいうべき状況をどうにか阻止しなければヤバい」といった意見も多かった。「産んだ側(次世代を生んだからこそ、国の社会経済の成長やインフラの拡大に精力的にコミットする動機を持っている層)」にフリーライドするような生き方をやめさせる議論が必要というのは一理ある。しかしながら、「結婚」や「子育て」が普遍的なものではなく、じわりじわりと「勝ち組のシンボル」となってきている現代においては、そのような議論や合意形成自体が難しくなっている。
「結婚できたり子どもを持てたりしているということはイコール恵まれている側なのだから、そんな人たちが単身世帯の社会保障やインフラのために余分に稼ぐのは“公平性”の観点から見ても妥当だろう」という主張には一定の説得力が出てきてしまってすらいる。
「歴史的連続性」から切断された人を増やした結果である
「自分の老後どころか、死んだその先の未来のことを考える」というのが、その国に生きる者として呼吸するのと同じくらい当たり前の営みでなくなり、ある種の“贅沢な思想”になってしまったら、その国はきっと滅びる。
だれもかれもが、顔も名前も知らない未来の人びとのためではなく、いま自分が生きている間の繁栄や快適を望むからだ。未来のために残しておいた貯えも、いまの快適さを守るために必要なら、残さず食べつくしてしまう。
責めているわけではない。私たちの社会が選んで「歴史的連続性」から切断された人を増やしてしまったからそうなったのだ。