FIREは若いうちから「自分を老人に擬態する」方法論

たとえば、自分ひとりが生きていくには困らない程度のストック資産を形成して「FIRE」を達成した者は、現在の社会制度上は所得が乏しい「経済的弱者」としてカウントされ、公的支援の対象者として捕捉される。冗談のような話だが、これは現在の社会支援の対象として引退世代(高齢者)を想定しているから生じる一種のバグである。

言ってしまえば「FIRE(志向)」とは若いうちから自分を老人に擬態して税や社会保障の負担から逃れつつ、あわよくば給付を受けることさえ可能にしてしまう、社会制度の抜け穴をつく、一種の「裏技」的な方法論なのである。

コインと退職メッセージで満たされたガラス瓶
写真=iStock.com/CatLane
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上掲レポートで示されているように、これからバリバリと世のため人のために汗を流してもらうことが期待されている働き盛りの世代の「FIRE志向」の増加は、人手不足をさらに加速させることにもなるし、購買力の低下つまりインフレの要因ともなる。「志向」されるだけでも大変なのに、本当に「FIRE」に成功して早々に隠居すなわち給与所得者を辞めてしまえば名実ともに住民税非課税世帯となって社会保障や生活インフラに実質的にフリーライドする側へと回ることになる。これは社会にとって痛手である。

身も蓋もないことを言えば、「産んだ側」の人びとの労働生産性や人口再生産性に依存しながら、独り身の老後生活を送ることになる。ロスジェネ世代は経済的に厳しい状況に置かれている人が多い世代ではあるが、かといって統計的に見れば「ひとりで暮らしていく分」の余裕資金を持てないほどではない。かれらには「老人になるまで頑張って働いて財産を増やす」という動機がそもそもない。ほどほどに仕事をしながらスローライフを続けていく動機のほうがずっと大きいのだ。

「自分が死んだ後はどうでもいい」ライフスタイルを内面化

伝説のコピペが指摘するように、因果は巡ってくるのである。

当たり前に得られていたはずのライフイベントが根こそぎ奪われたロスジェネ世代は、「自分のコンパクトな暮らしを死ぬまで続けられればあとのことはどうでもいい」という刹那的というか、現世利益主義的なライフスタイルを内面化するようになった。皮肉にもそれは、かれらが世間から散々に言われてきた「自己責任」にアジャストした結果ともいえるだろう。

結婚して、家庭をもって、次世代へとバトンをつないでいく――という共同体の歴史的連続性から切り離されてしまった者は、「個人最適化」を図るようになる。それは至極当然のことだ。歴史的連続性から切り捨てられているのに、「日本の歴史的連続性を保つために奉仕しろ」と言われても鼻白むばかりだろう。