学校以外で子どもが学ぶ方法はあるのか。小中学校の9年間、1日も通学せず“義務教育”を受けなかった東京藝術大学出身の作曲家・内田拓海さんは「教科書はなかったが、7歳くらいからインターネットを利用するようになったので、『学ぼう』と思えばどんなことも学ぶことができた」という――。(第2回/全3回)

※本稿は、内田拓海『不登校クエスト』(飛鳥新社)の一部を再編集したものです。

黒板
写真=iStock.com/Professor25
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教科書はなく、安いドリルは面白くない…

私は勉強も両親から教わってはいませんでした。

正確に言うと、7歳くらいまでは母が勉強をみてくれてはいました。“みていた”とは言っても、小学校で使っている教科書も手元になく、教材は100円ショップで買ってきた“ドリル”だけ。

でも、こういう言い方は失礼かもしれませんが、100円ショップのドリルや問題集は正直、面白くありません。コスト的に仕方がない部分なのだろうと思いますが、ドリルを開くと問題がただただ並んでいるだけ。面白いイラストや解説なども載っていませんし、私としてはちっとも楽しめません。

そして、教えてくれる母にも、あまり納得がいっていませんでした。

母への不満をわかりやすく言えば、教材の中身に対する関心のなさ。「なんでもいいから適当に買ってやらせよう」というような考えに、子どもながらに勉強のやる気をなくしてしまったのです。

親が子どもに教えるスタイルには限界がある

大人になった今考えれば、母も働いていただけでなくちょうど妹も生まれたばかりで、私だけに時間や労力、お金を割く余裕がなかったことはよく理解できます。

ただ、「人に教える」という行為は、問題集をやらせたり教科書を解説するだけでは不十分だとも思うのです。私自身が教える側として、藝大、音大の受験生や子どもたちに関わるようになったことで、よりそれを考えるようになりました。

もし何かを人に教えるのであれば、最低条件として、教える内容についての知識や経験を自分の言葉で語ることのできる理解と実感を持ちながら、相手に対して愛情と忍耐を持って接することができるだけの総合的な人間力は必要だと思うのです。

ただ、それを親や家族に求めることはなかなか難しい。ホームスクーリングに限ったことではありませんが、親が先生、子どもが生徒となって教えるスタイルは、何を教えるにしても家族であるがゆえに、お互い感情が入ってしまって上手くいかないケースも少なくないと思います。