文化的には重要だけど、日常的には支障ない
藝大、そして通っている大学院では手書きで漢字を書くという機会はほとんどありません。入試のための勉強漬けだった浪人時代はいざ知らず、それから7年以上のブランクがあるので“抜け”が多いのです。
漢字を正しく書けるということには、もちろん利点があると思いますし、日本の文化の中では「きれいな字を書く」――書道やペン習字の伝統や美学というものも、あると思います。そうしたものの芸術的、文化的価値も素晴らしいものだと思っていますし、日本の書く文化は継承されていくべきものです。
ただそれでも、情報を処理するという観点だけで見れば、すべての人に絶対にそれが必要だというわけではありません。現代社会においては、やはりデバイスの存在が良くも悪くも強過ぎるからです。
パソコンやスマホを使っていれば、私でなくとも文字を書く機会はそうそう多くありませんし、自分では書けない漢字も、打ち込みさえすればソフトやアプリが正しく変換してくれますから、日常的に支障がないことは、誰もが知っています。
こうしたことは何も計算や漢字に限ったことではなくて、やり方次第でどんな情報でも常に持ち合わせることができるという、現代の最大の特徴だと思います。
7歳からインターネットの世界に触れていた
今の社会では、こんなふうに計算も漢字の学習も、何かを調べたり確認したりすることも、コミュニケーションでさえも、デバイスからネットにアクセスすることで行うことができます。
これは私のように学校に行っていない子どもにとって大きな利点です。もし環境が整っていなくても、1人でも、学習できる。ホームスクーリングできます。
私自身が意識してインターネットの世界に触れ出したのは、7歳くらいからです。
当時としては、これはかなり早いほうでした。もうその前から、5歳の頃には自宅には“ウィンドウズ98”が入ったパソコンがあって、数年後には、それが“XP”に切り替わっていましたから、両親もパソコンやネットというものにわりと理解があったのでしょう。