伝説の熱海会談はこうして始まった
熱海での会議は白熱化した。販売会社、代理店の社長からは、経営悪化の実態があからさまに吐露され、苦情や要望が盛んに寄せられた。壇上で、幸之助は、それらを一言も聞きもらすまいと耳を傾け、また、腹蔵のない意見を述べた。激しい議論が闘わされたが、何らの結論も得ぬままに、最終日の7月11日となった。
しかし、苦情はなお続きそうな気配である。そのうちに幸之助は、昔、電球を発売し、「横綱にして下さい」と無理を承知で頼んだことを思い出し、万感が胸に迫った。
そこで「2日間十分言い合ったのだから、もう理屈を言うのはやめましょう。よくよく反省してみると、結局は松下電器が悪かった、この一言に尽きます。これからは心を入れ替えて出直しますので、どうか協力して下さい」と祈るように訴え、絶句した。見ると、幸之助がハンカチで涙をふいている。
思わず全員がもらい泣きし、会場は一転して粛然となった。会談は感涙とともに幕を閉じた。
閉会に当たり、幸之助は、1枚ずつ思いをこめて揮毫した「共存共栄」の色紙を社長1人ひとりに差し上げた。その後、幸之助は病気療養中であった営業本部長の職務を代行し、不況克服に全力を傾注。
1965(昭和40)年2月には、「新販売制度」を実施。
その内容は、
①販売会社の整備強化、
②事業部との直取引制度、
③新月販制度などの画期的な制度であった。
パナソニックホームページ『松下幸之助の生涯』より
松下幸之助が謝罪した意味
戦後の繁栄が進み、大型の家電製品の普及が一巡したにもかかわらず、メーカー各社はブームの頃と同じようなペースで商品をマーケットに投入し続けてしまったのが、このときです。
松下電器でも、日本全国で販売会社や代理店の経営が赤字に転落してしまいました。当時、幸之助はすでに会長という立場に退いていましたが、危機的状況を迎え、経営の最前線に復帰するのです。
そして、全国の販売会社、代理店の社長を招待し、3日間連続の懇談会を開催したのでした。1日目、2日目は激しい意見の応酬が続きました。お互いを非難するばかり。ところが3日目、幸之助は「責任は松下電器にある」と言い出します。
これは相当な荒療治が必要であると気づいた幸之助は、流通の責任や販売会社、代理店の社長の心を一つにしなければいけないと考えたのでした。そこで、2日目まではとにかく意見を言ってもらい、3日目で松下電器が悪かった、全力で改革に挑むと言って、心を一つにまとめていったのです。
非難で埋め尽くされた会場は、幸之助ならではの心をつかむやり方に、まさに一致団結したのでした。その後、自ら営業本部長代行に就任、流通改革を牽引して、新しい販売制度を軌道に乗せていきます。
後に熱海会談は、社内で伝説として語り継がれていくことになりました。