高収入の大名たちを苦しめた参勤交代
江戸時代の武家社会は身分や格式が厳格に定められ、それに応じて、収入額も異なった。
将軍の直臣のうち、1万石以上の知行を持つ者が、いわゆる「大名」である。なかでも尾張、紀州、後に水戸の三藩は「御三家」と呼ばれ、最も格式の高い大名だった。将軍家に継嗣がない場合、この三家のうちから将軍が選出された。
江戸幕府に直属した1万石未満の武士を直参と呼ぶ。江戸時代には、将軍に謁見できる御目見得以上を旗本、謁見できない御目見得以下の武士を御家人としていた。
大名の収入は、「加賀百万石」で有名な加賀藩の場合(102万5000石とする)、「現代感覚」で算出すると約3075億円にものぼる。しかし、江戸時代の大名は「参勤交代」の制度によって、江戸と領地を行き来することが義務付けられているなど、出費も多かった。
参勤交代における大名行列は、3万石クラスの大名で、150人から300人規模の供の者を従えた。しかし、加賀藩の場合、5代藩主・前田綱紀、4000人もの大行列を組んだとも伝わる。行列の費用や江戸の滞在費など、大人数の移動は大名にとって相当な負担となった。それは、藩財の約6割も占めたという。
旗本の収入は1200万~12億円までさまざま
将軍直臣のうち、1万石未満の直参は、旗本と御家人に大別される。
旗本は100石から1万石未満と大小さまざまだったが、200石から600石程度の中堅層が多数を占めた。役職としては主に管理職に就いたが、大別して戦時に備える「番方」と、行政等の組織運営を行う「役方」に分かれる。書院番から奉行職になり大名にまで上り詰めたのが大岡忠相だが、江戸時代を通じて極めて稀有な例である。
御家人は、将軍直参のなかでも「御目見得」以下である。将軍に謁見する権利はなく、俸禄の多くが蔵米取だった。収入も旗本に比べ少なく、宝永年間(1704-1711年)の蔵米高によれば、50俵未満、10俵以上の御家人が9割を超していたとされる。主に与力や同心など、奉行の下で働く職に就いた。
旗本が務めた奉行、御家人が務めた与力、同心は時代劇でもお馴染みの役職である。