日米安全保障のアンバランス

もう一つ私が懸念するのは、「これでもう憲法上9条の問題はなくなった」と言われることです。9条にはまだ大きな論点が残っています。

それが自衛権、特に集団的自衛権の問題です。

日米安保体制は、日本が集団的自衛権を行使しない代償として、日本に米軍基地を置く義務を負わせています。いわゆる非対称双務条約であって、双務的ではあるが内容が対称ではない。米国側は兵士の血を流しても日本を守る(ことになっている)が、日本側はその対価として基地用地を提供する。「血」に対して「土地」をあがなう、というこのバランスの悪さが、日本の安全保障政策の欠陥としてあちこちに出てくる。

日本国の独立と平和のためのみならず、極東の安全と平和のため、つまり米国の利益のために基地を提供する義務を日本が負っている、ということにもなる。自分の国を守る、という安全保障政策に自立性、主体性を持てない。こんな国は他にありません。

私は、日本人は日本国を自分で守るんだ、という当たり前のところに安全保障政策を戻したいのです。もちろん日本だけでは守れないから日米安保条約は必要です。しかしそれは、お互いに自衛権を行使しあう、という対称な関係の中でマネジメントしていくべきものだと思っています。「3項加憲案」では、この本質的な問題を見落とすことになります。

オスプレイが駐機している米普天間飛行場
写真=iStock.com/sunrising4725
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安倍政権で「丁寧な説明」は失われた

安倍総理の政治手法は、歴代の総理総裁を思い起こしても、非常に特徴的な点がいくつかあった、と思います。

まず、敵はこうだと明示して賛同者を増やし、錦の御旗は我にあり、という流れを作っていく、という方法。例えば役所相手では、「財務省は財政規律さえ守れれば国が滅んでもかまわないと思っている人たちだ」、内閣法制局について「憲法解釈さえ維持できれば国のことは考えていない」と仰られていたと言われている。

たしかに、財務省や法制局が政策的な方向性を邪魔するように思われる局面はあったでしょう。今までは私が知る限り、そういった場合でも、政府与党として話し合い、妥協点を探っていくのが常道でした。しかし安倍総理は巧みにそれを「敵」として扱い、口出しがしづらい環境を作るということに成功された。それによって、民主主義の必須の要素である丁寧な説明はある意味不要になりました。

安倍一強ともいわれた安倍総理への権力集中は、小選挙区制導入による首相権力の強化、という制度的側面もあったと思いますが、安倍総理の個人的な資質によるものも大きかったのではないかと思います。