「紫式部日記」に書かれた出仕初日の様子

それを受け、道長はまひろに、自身の娘である中宮彰子の女房になるように打診した。女房として彰子の後宮に囲って『源氏物語』の続きを書かせ、同時に、まひろと彼女が書く物語に関心をいだいた一条天皇が、彰子のもとに渡ってくる動機になることを期待しようというのである。

一人娘の賢子(福元愛悠)を家に置いて出仕することに、まひろは最初、乗り気ではなかった。だが、自分が出仕して物語の続きを書くしかないと判断し、父の藤原為時(岸谷五朗)も、「悪いことではない」とし、賢子は自分に任せるようにいってまひろを促した。こうして、まひろは雪の降る日、彰子の後宮に出仕した。

一条は書き手の紫式部にまで興味をいだいたのかどうか。それは史料からうかがい知ることはできない。だが、道長が『源氏物語』を書かせるために紫式部を出仕させたであろうことは、研究者の多くが推測している。

土佐光起筆「源氏物語画帖」より石山寺での紫式部
土佐光起筆「源氏物語画帖」より石山寺での紫式部(画像=ハーバード美術館群/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

出仕した日だが、『紫式部日記』の寛弘5年(1008)12月29日の条に、「しはすの二十九日にまゐる。はじめてまゐりしもこよひのことぞかし(12月29日に参上する。最初に参上したのも同じ日だった)」と書かれている。また、それに続いて、「こよなくたち馴れにけるも、うとまし身のほどやとおぼゆ(宮仕えにすっかり慣れてしまったのも、いとわしいことと思える)」とある。

したがって、寛弘5年の前年ではなく、寛弘3年(1006)か同2年(1005)の可能性が高そうだが、寛弘2年11月15日には、第32回で描かれたように内裏が焼失している。その慌ただしいなかで出仕できたものかと考えると、寛弘3年とするのが妥当なのではないだろうか。

なぜ実家に引きこもったのか

ところが、紫式部は出仕してすぐにつまずいてしまった、『紫式部集』には、出仕後間もなく詠んだと思われる歌が載せられている。

身の憂さは 心のうちに したひきて いまここのへぞ 思ひみだるる(わが身のつらさは、私から離れずにこの場所にまでついてきて、いま宮中で幾重にも思い乱れていることです)

夫に死なれて以来の身のつらさは、出仕すれば少しはやすらぐと思ったが、そうはいかなかったということだろう。まもなく里に帰った紫式部は、少しだけ言葉を交わした女房に歌を詠み送った。

とじたりし 岩間の氷 うちとけば を絶えの水も 影みえじやは(山の岩間を閉ざしていた氷も、春になって溶ければ、水となって流れて人の姿を映すでしょう。同様に、心を閉ざしていたみなさんが打ち解けてくだされば、私も姿を見せるでしょう)

正月10日ごろには、中宮彰子から「新春の歌を献上せよ」というお達しがあったが、出仕はせず、「隠れ家のようにしている家から」歌を送った。

み吉野は 春のけしきに 霞めども 結ぼほれたる 雪の下草(雪深い吉野の山にも春が訪れるように、宮中は新春の景色で霞が立ち込めているのでしょうが、私は雪の下の草のように、芽を出さないままです)