定子の後宮と対照的だった彰子の後宮
定子の後宮は社交的で、華やかで、人々は当意即妙の洒落た会話を交わし続ける場だった。だから、清少納言のような主張の強い女房が重用されたのである。
一方、彰子のそれは、紫式部自身が日記に書いているように、女房も子どもっぽいお嬢様ばかりで、みな引っ込み思案だったという。紫式部の観察によれば、彰子自身が自己主張を控え、大過なくやりすごそうとするタイプだったから、根っからのお嬢様たちは、なおさら消極的になったようだ。
風流を口にしたり、恥ずかしくない会話をしたりする女房が少なくなった、と貴族たちも嘆いている――。紫式部自身、のちに彰子の後宮について、このように記している(『紫式部日記』)。
そんな女房たちが、新参者の紫式部を冷たくあしらったものだから、「将来の引っ込み思案で内省的な性格に加えて、もともと持っていた宮仕え嫌悪感」(倉本一宏『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)もあって、紫式部は出仕できなくなってしまったのだろう。そうだとすれば、これは道長が女房に選りすぐりのお嬢さまばかりを集めたせいだといえよう。
わざと高慢さを隠して勤め続けた
賢子のためにも稼ぐ必要があり、いつまでも引きこもってはいられないという判断もあっただろう。ようやく職場に戻った紫式部は、人から文句をつけられないように、なにを聞かれもボケて通すようになった。
ところが、そういう態度でいたところ、女房たちがこぞって紫式部を評価するようになったという。気取り屋で、才女ぶって、人を見下すような高慢な女性だと思っていたら、おっとりしていて、別人のようだと。
むろん紫式部は、そんな彼女たちを冷静に観察している。つまり、どちらかといえば「高慢な女性」なのだが、演技が功を奏したようだ。言い換えれば、そんな演技にだまされるようなお嬢様ばかりの環境だったから、紫式部が出仕できなくなったということだろう。