「命じられる切腹」から「自ら選ぶ切腹」へ
その理由については「徳川家の情容赦のない武断政治――威厳維持の政策にあったとしか思われない。理由のいかんを問わず、たとえどんな些細なことであろうと違反を犯した場合は、その責任を追及するという幕府の鉄の掟が、各藩にも浸透していたのである。それは公的な意味だけでなく、私的な意味にも拡大解釈され、個人的な約束違反をするとかまたは他人に迷惑をかけたとき、信義にもとるとして切腹の行われる場合があった」(中井勲著『切腹』ノーベル書房 1970年)とされる。
つまり、江戸幕府の厳しい処断姿勢が「罪に問われる前に責任をとって自死を選ぶ」という風潮をつくり上げたというのだ。罪としての切腹と自責の念からの切腹が密接に連動しているという考え方はなかなか面白い。
ただ、藩のトップである大名自らが、失政の責任を感じて腹を切る例は絶無だった。たいていは、その家老や側近が詰め腹を切らされて決着する。
戊辰戦争に敗れた東北諸藩に対し、新政府は藩主が自裁する代わりに家老の切腹を求めた。ゆえに誰一人、敗北した大名は死んでいないのだ。
会津藩主の代わりに家老3人が責任を取った
たとえば戊辰戦争で朝敵とされた会津藩は、鶴ヶ城に籠もって新政府軍に徹底抗戦したが、城下は灰燼に帰し、城内の矢玉も尽き、1カ月後に降伏している。藩主の松平容保は粗末な籠に乗せられて江戸へ護送されたが、死一等を減じられ、処刑は免れることになった。だが、新政府はその代わりに、敵対した責任として家老3名の首を要求した。
このうち田中土佐、神保内蔵助はすでに死んでいたが、あと1人、犠牲にならねばならない。その役を買って出たのが萱野権兵衛だった。これを知った容保は、萱野に書簡を送っている。
「私の不行き届きよりこのようなことになり、まことに痛哭にたえない。一藩に代わって命を捨てること、不憫である。もし面会できるならお前に会いたい。が、それはかなわぬこと。お前の忠義は、深く心得ている。このうえは、潔く最期を遂げてくれるようお頼み申す」
この書簡を目にした萱野は涙を流し、粛々と死についたといわれる。