作法が確立し、流れ作業のように切腹した

かつては、腹を割いて臓物をばらまいたあと、みずから刀を口にくわえて命を絶ったり、首を切るなどして死んだが、刑罰としての切腹は介錯がつくのが通例となった。

また、腸を引き出す行為はむしろ敬遠されるようになった。いずれにせよ、5番目に秀次は見事に腹を切り、介錯を受けて果てている。

江戸時代になると、切腹の作法がしっかりと確立してくる。切腹前の潔斎けっさい。公儀への届け出。当日の準備や服装。切腹に用いる短刀の寸法。具体的な切腹の所作。介錯の作法。検死の方法。こうした細かい取り決めごとに則り、淡々と流れ作業のように切腹が進んでいくのは、おそらく世界的にも異例だと思われる。

江戸時代末期の切腹の様子を描いたイラスト(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
江戸時代末期の切腹の様子を描いたイラスト(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

また、腹に刃を突き立てる前に介錯を受けることも珍しくなくなる。元禄時代に吉良上野介を討った赤穂浪士たちも、この方法で亡くなったようだ。ただ、はざま新六郎だけは本当に腹を割いたので、介錯人があわてて首を落とした。

けれども、必ずしも腹を割く前に介錯するのが主流となったわけではない。実際に割腹の例は記録に多く残る。

「殉死すべき」という寵臣への圧力

いっぽうで、扇子腹も見られるようにもなる。短刀の代わりに扇子を三方に載せ、その扇子に手を伸ばした瞬間、介錯人が首を落とすという切腹方法だ。切腹者が子どもや病人、あるいは臆病だったり、刃物を持たせると危険な場合に行われた。

戦の敗北による自殺、罰としての自殺の強要を紹介したが、切腹する動機はじつにさまざまである。江戸初期までは、主君が死んだとき、それに殉じるために切腹することも少なくなかった。とくに寵臣には「殉死すべき」という強い圧力がかかったようだ。

主君を諫めるため、あらかじめ腹を切ってサラシをきつく巻いて主君の前に出て、諫言を行ってそのまま果てる、これを蔭腹かげばらと呼んだ。

ただ、江戸時代にはやはり、失敗や不手際の責任をとるために行われる切腹が極めて多かった。