切腹後に城を放火し、自らとどめを刺した勇将

たとえば、1332年に護良親王(後醍醐天皇の皇子)の身代わりとなった村上義光は、矢倉(やぐら)の上で腹を切って腹部から腸をつかみ出し、矢倉の板に投げつけ、口に太刀をくわえて飛び降りて死んでいる。

赤松満祐は室町幕府の六代将軍足利義教を殺害したため、1441年に幕府の征討軍に攻め滅ぼされた。そのさい、赤松方の勇将である中村弾正も、やはり矢倉にのぼって「これから腹を切る。心ある侍は、のちの手本とせよ」といい、十文字に腹部を掻き切り、はらわたを手でつかみ出し、矢倉の下に投げ落とした。

さらに驚くべきは、そのまま城へと戻って主君満祐の御座所に火をかけ、その後、自らにとどめを刺して焼死したと伝えられる。

だが、戦国時代になると、晴れ舞台であった切腹は、武士の刑罰となっていく。

権力者や勝者が罰として切腹を申し渡すようになるのだ。切腹という行為はあくまで自殺だが、その行為を強要されるわけで、その本質は他殺といってよいだろう。

謀反した秀吉の甥は4人を介錯して果てた

天下人の豊臣秀吉も、幾人もの敵や部下に切腹を申し渡している。

その代表が、一度は自分の後継者に選び、関白にまで昇進させた甥の豊臣秀次だ。

1595年、秀次は秀吉から伏見城まで来るように言われ、出向いたところ、城ではなく木下吉隆の屋敷に案内され、そこで「高野山へ登れ」と命じられた。理由は謀反の罪であった。弁解は一切許されなかった。その日のうちに秀次は伏見を出て7月10日に高野山の青巌寺に入った。そしてまもなく秀吉から死を賜り、7月15日、秀次は切腹して果てた。

自害する前、秀次は小姓の山本主殿、山田三十郎、不破万作に、貴重な脇差を手渡した。彼らはいずれも10代で、美少年だったと伝えられる。3人は主君に先んじて次々と腹を切っていった。4番目には、秀次に目をかけられていた東福寺の隆西堂(虎岩玄隆)が、秀次があの世で迷わぬよう腹を切った。

驚くべきは、その4人すべての首を、見事に秀次自身が切り落としていったことである。これを介錯かいしゃくというが、すぐに死ねない切腹の苦痛を和らげるのがその目的だった。