切腹後に城を放火し、自らとどめを刺した勇将

たとえば、1332年に護良親王(後醍醐天皇の皇子)の身代わりとなった村上義光は、矢倉(やぐら)の上で腹を切って腹部から腸をつかみ出し、矢倉の板に投げつけ、口に太刀をくわえて飛び降りて死んでいる。

赤松満祐は室町幕府の六代将軍足利義教を殺害したため、1441年に幕府の征討軍に攻め滅ぼされた。そのさい、赤松方の勇将である中村弾正も、やはり矢倉にのぼって「これから腹を切る。心ある侍は、のちの手本とせよ」といい、十文字に腹部を掻き切り、はらわたを手でつかみ出し、矢倉の下に投げ落とした。