「学歴ロンダリング」が気になってしまうワケ
大学卒業で得られる「学士号」にちなみ、かつて日本では「学士様」、つまり、大学の学部を卒業するだけでも尊敬されていた(※4)。今から107年前、大正6年に出版された小説『学士様なら娘をやろか』には、「学資」(学費)を支払えなくなりそうになり、「学士」になる見込みを売りに、資産家の娘との結婚を企てる学生がコミカルに描かれている。
かといって、令和の今、「東大卒なら娘をやろか」とも、「コロンビア大学大学院卒なら娘をやろか」とも、誰も言わないどころか、想像もつかないのではないか。どれだけ「学歴ロンダリング」をしたとしても、昔の「学士様」ほどの威光は得られないのではないか。
多くの人が「学士様」になったからこそ、その先=大学院での「学歴ロンダリング」に対して、憧れとも嫉妬とも揶揄ともつかない、いくつもの感情がないまぜになった視線を向ける。しかも、大学院に進む人が同世代の10人に1人に満たない、となれば、なおさらである。
加えて、大学入試の多様化が追い打ちをかける。かつて「一芸入試」などと言われた「AO入試」は、「総合型選抜」へと衣替えし、学力=テストの成績、だけで測る機会が減っている。私立大学では一般の入学試験よりも、その他の形式での入学者数のほうが上回る。大学の学部の入学偏差値=学力、とは言い切れなくなっている。
「学士様」の輝きが消えても…
ここに、日本社会が、延々と「学歴」にこだわり続ける、今の事情がある。
折しも、まっさきに自民党総裁選への立候補を表明した小林鷹之氏は、中学受験の最難関校のひとつ・開成中学から開成高校を経て、東京大学法学部を卒業後、大蔵省(現在の財務省)に入り、ハーバード大学ケネディ行政大学院で公共政策学の修士号を得ている。東大からハーバード大学大学院への留学を、誰も「学歴ロンダリング」とは呼ばない。
小林氏だけではなく、これから立候補するとみられる他の自民党の政治家もまた、その「学歴」が取り上げられるだろう。
「学士様」の輝きは消えたとはいえ、それでも、「学歴」が気になる社会に、私たちは生きている。「学歴ロンダリング」を嘲笑する人も、しない人も、そして、この記事を書いている私も、読んでいるあなたも、「学歴コンシャス社会」を生きている。
ここで、「学歴から学習歴へ」という、おきまりの文句を並べるつもりはない。それよりも、なぜ、私たちは「学歴」を気に掛けるのか、この点をあらためて考え直す機会なのではないか。
参考文献
※4:齋藤安俊「学位授与機構 学位取得の新しい途」