「なぜあの人ばかりが…」不公正感が引き金になる

二つ目、組織の公正さに不信を抱くとき。自分が未熟だと判断するときは、「ちゃんと」「がんばって」解決できますが、職場での業務成果の判断基準が偏っているとはっきり確信すると、嫌気がさしてくるものです。

無能な上司が順調に出世する理由は、いくら考えても役員たちとのゴルフのおかげにしか思えないなら?(類似品として学閥や縁故がある)。正当な手続きを経た問題提起が黙殺され、自分だけが被害を被るなら? 自分のアイディアが他人のものとして利用されたが、その過程を自分はまったく知らされないままだとしたら?

この段階で組織に怒りを覚え、積極的に月給泥棒になってやろうと計画するというハッピーエンド(?)も可能ではありますが、そういう人だったらもうとっくにそうやって暮らしているはずです。がんばったからこそ、組織内の不公正がいつも神経に触って疲れるのです。仕事するだけでも大変なのに、ほかの人たちはどうしているのか、いつまでも見守っているだけではこちらがもたないというもの。

結論的には、燃え尽きは個人の問題ではすまないということです。その人を取り巻く環境が相互適用した結果なのです。WHOでは2019年、燃え尽きについて疾病ではなく「職業に関連した症状」だと明記していますが、解決策としては、適切な補償やポジティブなフィードバック、仕事に対するプライド、加熱競争やゴシップを避けることなどについて言及しています。解決が容易でないことだけは明らかです。

仕事は立ち止まっても大ごとにはならない

〈解決編〉

拙書『出勤途中の呪文』(출근길의 주문、未邦訳)では、「仕事は私じゃない」「生活人としての感覚を維持せよ」と書きましたが、それがこの燃え尽きの経験から得た貴重な教訓です。仕事を「立ち止まっ」ても、大ごとにはならないもの。辞めさえしなければ、どうにかして前に進んでいく。

でも、立ち止まることが怖くて、指一本動かせないようなときでも、プレッシャーしか残らない状況になるまで自責しながらもっとがんばろうとする。人間関係と仕事のある部分が完全に壊れてしまうまで。