藤原道長はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「自身の家系に権力を集中させるため、不安要素になるものは徹底して排除した。それは一条天皇と定子の間に生まれた敦康親王との関係を見るとよくわかる」という――。
紫式部日記絵巻の一部
紫式部日記絵巻の一部(画像=Bamse/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

NHK大河では「人格者」として描かれる藤原道長

藤原道長(柄本佑)がついに、正室の倫子(黒木華)とのあいだに生まれた長女の彰子(見上愛)を、一条天皇(塩野瑛久)のもとに入内させる決意をした。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第26回「いけにえの姫」(6月30日放送)。

娘たちを次々と入内させ、天皇の外祖父となって自身の権力基盤を盤石にした――。それが一般的な道長像であり、私自身、「光る君へ」でも、道長はそのように描かれるものだと思っていた。最初は人格者として描かれてきた道長だが、どこかのタイミングで「闇落ち」させられるに違いないと考えていた。

ところが、6月30日付の朝日新聞朝刊の記事で、脚本の大石静は「闇落ちはしません」と語っていたのである。

第26回で、道長が彰子を入内させようと決意するきっかけとなったのは、安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)の進言だった。いま世が乱れているのは、一条天皇が中宮定子(高畑充希)を寵愛しているためで、それを正すためには、道長の娘が入内して朝廷を清めるしかない。それが晴明の主張だった。そして、藤原実資(秋山竜次)らの公卿もそれを望んでいるという。

そこで、道長は心を決め、朝廷を安定へと導くために、はなはだ不本意ではあるが、彰子を「いけにえ」として差し出す決意をした、という展開である。おそらく、今後も道長は公の利益のために自己犠牲を重ねる人格者として描かれるのだろう。

一条天皇と定子の間に生まれた親王の悲劇

むろん、道長を傲慢な独裁者だったと決めつける必要はない。娘を入内させた動機も、私欲にあったとは言い切れない。この時代、天皇の外祖父が摂政や関白に就任してこそ、政治は安定した。道長も政治を安定させるために、自身の家系に権力を集中させようとしたともいえる。

だが、それは道長が今日的な意味で「人格者」であったのとは意味が違う。道長は政治を安定させるために、どんな手段に訴えたのか。第27回「宿縁の命」(7月14日放送)で定子が産む敦康あつやす親王の運命をたどりながら確認してみたい。

道長の長女、彰子は長保元年(999)11月1日に入内した。その行列には多くの公卿たちが付き従ったことからも、朝廷の安定のために、貴族たちがこの入内を歓迎していたことがうかがい知れる。そして11月7日、一条天皇は彰子を女御にするという宣旨(天皇の意向を伝える文書)を下した。

すると、奇しくも同じ11月7日の早朝、定子は一条天皇が待ち望んだ第一皇子となる敦康親王を出産したのである。

当時、天皇の秘書官長にあたる蔵人頭で、「光る君へ」では渡辺大知が演じる藤原行成の日記『権記』には「仰せて云はく、『中宮、男子を誕めり』。天気快然(天皇は仰せになりました、『中宮が男子を出産した』と。上機嫌のご様子でした)」と記されている。