中元兵長は壁ぎわにしゃがみこんでしまった
軍医はさいごにもう一度、胸に聴診器をあてながらじっと首をかしげていたが、やがて体をおこすと、眼鏡のつるをおさえたまま、絶望的に頭をふった。それを見て、まわりを囲んでいたおれたちは、思わず目を伏せた。しばらくは息をつめて誰も顔をあげない。中元兵長にいたっては、雷にでも打たれたように頭をかかえて壁ぎわにしゃがみこんでしまった。
やがて分隊長が知らせをききつけてやってきた。バスにでも入っていたのだろう。分隊長の体からは、なまあたたかい湯気と石鹸の匂いがした。副直将校に立っていた森分隊士もいっしょだった。
分隊長は、診察台の江南の顔をのぞきこんで、さっと顔色をかえたが、それでも事情はすでに先任下士官から聞いてきたらしく、その声は思ったより冷静だった。彼は軍医にむかって言った。
「赤堀中尉、もう全然のぞみはないのかね。」
軍医は汗ばんだ顔をあげて、
「はあ、できるだけの手はうってみたんですが……。」
「それで死因は?」
血で汚れた顔や手足をお湯できれいに拭いてやった
軍医はそれには答えず、分隊長のほうに江南の背中をまわしてみせた。見ると、それはおそろしい一撃だったにちがいない。背中から左の脇腹にかけて、はっきりと打ちすえた棍棒の「歯形」がのこり、ところどころあざのように薄いむらさき色の斑点が浮いている。軍医はそこを指で軽くおさえてみせながら、
「ここをやられたショックで、多分心臓麻痺を起したのでしょう。なにしろ、場所が心臓の真上ですからね。ひどいことをしたもんです。」
「うむ……。」
これにはさすがの分隊長も声がなかった。彼はそれだけ聞くと、副長のところへ行ってくると軍医に言って、すぐまた病室を出ていった。
江南の屍体はそれからまもなく、となりの隔離病室のほうに移された。そこがちょうど空いていたので、かりの霊安室になったのである。そのあと、つめかけていた分隊員はデッキへひきあげた。ただ、江南と同じ班の関係で、班長のほかに野瀬兵長と山岸とおれの三人だけがあとに残った。おれたちは看護兵に手伝って、血で汚れた江南の顔や手足をお湯できれいに拭いてやった。
おれは、なんだか気の遠くなるような気持がした。だって、目の前に死んで横たわっているのは、ついさっきまで、おれたちと一緒に食器を運び、釣床を吊り、油雑布をもってデッキを這いずりまわっていた江南じゃないか……。おれはタオルを使いながら、ときどき江南の顔をじっとうかがった。ひょっとすると、まだ生きていて、口でも動かすんじゃないかと思ったのである。