大人に翻弄された「争い」の結末
そもそも道長は、「一帝二后」を実現する以前から、一条天皇が彰子に少しでも惹かれるようにと必死だった。『栄花物語』によれば、女房40人、童女6人、下仕え6人を、容姿や人柄のほか出自や育ちのよさにこだわって選りすぐったという。
また、山本淳子氏は「道長は財力で天皇を娘・彰子にひきつけようと工夫した」と書き、こう具体的に記す。「部屋の外まで香り立つ香、何気ない理髪の具や硯箱の中身にまで施された細工。天皇の文学好きを知る道長は和歌の冊子もととのえ、当代一の絵師・巨勢弘高に歌絵を描かせ、文字はまたも行成に筆を執らせた」(『道長ものがたり』朝日選書)。
しかし、彰子がまだ「子供」だということもあったのだろう。一条天皇の定子への寵愛は冷めることがなかった。そして、彰子が立后の儀を前にして、内裏から道長の屋敷である土御門邸に移ったタイミングで、定子を内裏に呼び寄せた。
道長は『御堂関白記』に、一条が定子を参内させたことについて、露骨な不快感を記しているが、道長の心配をよそに、3月に定子はふたたび懐妊した。
もっとも、こうして定子と争っていた彰子は、現代でいえばまだ小学校高学年という年齢であった。この争いも彼女の意志とは無関係で、彼女は大人たちの事情によって、翻弄されているにすぎなかった。その意味では、「光る君へ」のタイトルのとおり、「いけにえ」そのものだった。
しかし、定子との争い自体は、さほど長くは続かなかった。懐妊した定子は、この年の12月15日、第二皇女の媄子を出産したものの、後産が下りず、翌日早朝に亡くなってしまったからである。