公卿たちが彰子に期待した理由

ここからは定子と彰子、事実上は一条天皇と道長の駆け引き合戦が熾烈化する。とはいえ、道長のほうが応援団は分厚かった。そもそも、2月9日の彰子の裳着には、右大臣の藤原顕光をはじめ多くの公卿が参列した。倉本一宏氏は、その理由をこう記す。

「後見のいない、しかも出家している定子から皇子が生まれでもしたら、道長と定子の関係、また道長とその皇子との関係、さらには道長と一条天皇の関係がうまくいくとは思えず、政権、ひいては公卿社会が不安定になるという事態は、大方の貴族層にとっては望ましいことではなかったはずである」と記す(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)

その後、懐妊した定子は8月9日、出産場所となる平生昌邸に引っ越した。このとき一条天皇は、公卿たちに手伝うように命じたが、ほとんどだれも従わなかった。催促され、藤原時光と実資がやってきただけだった。

道長がわざと同じ日に、宇治への遊覧を企画して公卿たちに誘いかけ、みな、そちらに参加したのである。道長の定子への露骨な嫌がらせだが、公卿たちが道長に従った理由もまた、上記した倉本氏の見解のとおりだと思われる。

そして、いよいよ11月1日、彰子は入内し、多くの公卿が付き従った。7日には彰子を女御にするという宣旨(天皇の意向の下達)が下った。ところが、奇しくも同じ日、定子は一条天皇の第一皇子となる敦康親王を出産したのである。

その11日後、藤原実資の『小右記』や藤原行成の『権記』によれば、道長は霍乱(現在の急性胃腸炎)で倒れている。

京都御所
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前代未聞の「一帝二后」制度

この当時、天皇の秘書官長にあたる蔵人頭は、「光る君へ」で渡辺大知が演じる藤原行成だった。行成によれば、敦康親王の誕生に、一条天皇はよろこびを隠さなかった。一方、道長はみずからの日記である『御堂関白記』で、一条の皇子誕生について一切触れていない。

触れたくない事実だったのだと思われるが、道長としては手をこまねいているわけにはいかない。まだしばらく懐妊の可能性がない彰子の立場が、後宮のなかで低下しないように策を講じる必要があった。

ちょうど12月1日、太皇太后昌子が亡くなった。当時、后は太皇太后、皇太后、皇后の3枠で、空席がなければあらたにその地位には就けなかった。だが、席がひとつできた。そこで道長が考えたのは、その空席に彰子を入れ、皇后の別称である中宮とし、一条天皇という一人の天皇のもとで、前代未聞の「一帝二后」を実現することだった。

それにあたって道長が頼ったのは、姉で一条天皇の母である東三条院詮子と、藤原行成だった。まず、詮子が一条天皇に手紙を書き、それを行成が一条に届ける。一条はどうしたものかと行成に尋ね、行成が進言する、という手順だった。

「一帝二后」が必要だという理屈は、次のようなものだった。日本は神国なので、天皇もその后も神事を務める必要がある。ところが、定子は出家して仏教における尼になっているので、神事を務めることができない。だから、彰子を中宮にして、神事を務めさせる必要がある――。

道長に義理堅い行成の説得もあって、一条天皇はこの進言を受け入れるしかなかった。彰子の立后の儀が行われたのは、長保2年(1000)2月25日のことだった。