他の疾患ではなく肺炎である根拠とは…

医学生や研修医は、一般には日本社会で「頭の良い人たち」だと思われている。実際にそういう側面もある。しかし、スマートな彼らのはずなのに、この「結論、根拠、結論、根拠」の話し方を“苦手”とする人がわりと多い。結論は出すんだけど、根拠が出せない。そういうことが多いのだ。

「肺炎だと思います」
「なぜ、肺炎だと思うの?」
「それは……熱があるから」
「熱があれば、それは肺炎なんですか?」
「いえ……そういうわけでは……」
「では、他の疾患ではなく、肺炎であるという根拠としては弱いのでは?」
「そうですね」

目の前に起きている現象がAである、と主張する場合、それは同時にBでもCでもDでもEでも……ないことを意味している。Aにコンパチブルである(相容れる)ということと、それが他ならぬAであるということは同じ意味ではない。よって、現象がAであるという主張の根拠には、他の可能性、BやCやDやその他の可能性ではないという根拠も込められていなければならない。

ライプニッツを読んで私が考えたこと

私はこのことを、哲学者ライプニッツの『モナドロジー』を読んでいて思い至った。

念の為申し上げておくと、ライプニッツがそのような診断学的要諦を論じていると言いたいのではない。ライプニッツを読んで、“私がそう考えた”というだけの話である。私は哲学の専門家ではなく、哲学書の読解も全て「我流」である。私の了解する形でしか、私は哲学書を咀嚼そしゃくしたり、活用したりはできない。よって、私はいつも「ライプニッツはこう言っている」とは決して言わず、「ライプニッツを読んで私はそう考えた」と主語を「私」にしている。私がそう考えたのは、紛うかたなき事実なので、誰にも(たとえプロの哲学者にも)否定はできまい(というずるい考え方だ)。

昔、あるシンポジウムで「ヒュームを読んで、厳密な意味での『科学的な証明というのは不可能だ』と……」というコメントをしたら、「ヒュームはそんなこと言っていない!」と専門家に叱られたことがある。「いや、ヒュームを読んで私がそう考えたので……」と慌てて補足したので事なきを得た。専門家を相手に「哲学者××が○○と主張している」と主張するほど、私は勉強家でも自信家でもない。

畢竟ひっきょう、診断とは「Aであり、BでもCでもDでもその他でもない」と現象を正しく言い当てることだ。治療も同様だ。「Aであり、BでもCでもDでもその他でもない」治療を選択するのが大事である。

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写真=iStock.com/Dilok Klaisataporn
※写真はイメージです

目の前の患者には、常に最良の治療選択肢があると私はいつも考えている。その最良の選択肢を選択したいといつも考えている。

それは、一体何か。

それを言い当てるには、例えば抗菌薬甲を選ぶのであれば、同時に抗菌薬乙や丙や丁を“選ばない理由”を、論理立てて説明できねばならない。

診断であれ、治療であれ、医療医学においてはこのような、ある意味哲学的、あるいは論理学的命題に答える必要がある。少なくとも必要であると私は考えている。

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