子どもは権力を握るためのコマ

また、こんなこともあります。彰子に皇子がなかなかできなかった時、亡くなってしまった中宮定子の息子である敦康親王を彰子にかわいがらせて、彼を手なずけておきました。政権を握るためには、敦康親王を味方につけておく必要があったからです。

ところが、彰子に敦成親王が誕生すると、道長は、敦康親王を放り出しています。道長にとっては、敦康親王は、権力を握るためのコマにすぎなかったことがよく分かります。

大勢いる子供たちに対しても、道長は権力を握るためのコマに見ている節があります。道長は、まだ12歳にしかなっていない長女の彰子を一条天皇に入内させているのも、その例に該当しそうです。

一刻でも早く彰子に皇子を生んでもらい、外戚になって権力をふるいたいのです。

でも、彰子は、まだ、幼くて、天皇と男女関係はなかなか持てなかったと言われています。そのせいか、子供も9年間もできません。9年目に、ようやく皇子を授かりました。その時の道長の喜びようは、並一通りではありません。皇子におしっこをかけられても喜ぶ姿が、『紫式部日記』に記されています。

誕生した皇子がかわいいのはもちろんですが、その嬉しさは、外戚になって権力をふるう道が確保できた喜びに裏打ちされています。道長は、一人一人の人間に対する情愛は、極めて薄いと言えます。個々人の気持ちまで考えていたら、権力者にはなれないという面がありますからね。

藤原家の健康状態

権力者としての最も大事な資質の一つに、健康が挙げられます。というのは、道長の兄2人が、病気で若くして亡くなってくれたからこそ、道長に権力が転がり込んできたのですから。

正暦5年(994年)、疫病が大流行しました。大臣・公卿が大勢亡くなりました。その下の身分の貴族たちで亡くなった人の数は数え切れません。長兄・道隆は4月10日に亡くなりました。

ただし、「これは、その時の流行の疫病でお亡くなりになったのではなく、偶然、時が同じだっただけのことです」と『大鏡』は語っています。

道隆の酒豪は有名でした。平素の大酒飲みがたたって体が弱っていたところに、疫病にかかってしまってあっけなくこの世を去ったという可能性もあります。そのあと、次の兄の道兼が関白になりましたが、宣旨を受けて7日目に疫病で亡くなったので、七日関白などと呼ばれています。

それに対して、道長はいたって健康です。権力者になるためには、健康であることが必須です。