道長の運を開いた女性とは

兄たち2人が亡くなり、さあ、道長の出番と思いきや、一条天皇が立ちはだかります。一条天皇は、道隆一家と仲が良かった。道隆の娘・定子は、天皇の寵愛を受けていたし、道隆の息子・伊周とは馬が合う。

それに対して、一条天皇は、道長が好きでない。だから、道長以外の候補者から後釡を選ぼうとしていらっしゃる。

それを知ったのは、道長を可愛がっている姉の詮子。彼女は、一条天皇の母でもあります。母であっても、天皇の前では、下位です。天皇の気持ちを覆すことは、容易ではありません。

詮子は、道長に宣旨を下ろそうとなさらない天皇の寝所に自ら出向き、直談判をしました。長い時間がたつ。外では、道長が固唾をのんで待っている。詮子がついに天皇の部屋からお出ましになった。その時の詮子の様子を原文で示しましょう。

御顔は赤みれつやめかせたまひながら、御口はこころよくませたまひて、「あはや、宣旨くだりぬ」とこそ申させたまひけれ。
(=詮子さまのお顔は赤らみ、涙に濡れて光っていらっしゃりながら、お口の辺りは喜ばし気にほほえまれて「ああ、やっと宣旨がおりましたよ」と仰せられたことでした。)

誰にも相談せずに出家

詮子が、一条天皇を泣き脅ししたことが分かる表情ですね。天皇の前で、母は泣き、道長を権力者にする宣旨を出すように取り付けたのです。

道長の運は、詮子によって、切り開かれたと言っても過言ではありません。運を開いてくれる人を持つことは、重要です。道長は、詮子に恩義を感じ、詮子が亡くなった時は、ご葬儀を誠心誠意を込めて執り行なっています。

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道長は、54歳になり、3月21日夜半、少し胸が痛みました。すると、翌日の午後に、突然起き出して、氏神である春日明神に向かってお暇乞いをし、誰にも相談せずに、いきなり出家してしまいました。道長らしいですね。決断したら、直ちに実行です。

周りの人たちは、一様に茫然。その後、天皇・東宮・后の宮に知らせました。道長は、一人で沈思黙考し、決断し、実行に移すという性格であることが分かります。

ですから、子供たちの将来も、道長によってほとんど決められてしまったわけです。まあ、権力者にとって「決断力」は、最も大事な資質ですから、それを持っていたことは、当然ですね。

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