「やらまいか」と「やめまいか」

この違いは、さらに時代をさかのぼっても説明がつく。戦国時代、駿河は京都の文化の影響を受けた今川氏の本拠地だった。一方、遠州は三河(愛知県東部)や信濃(長野県)との交流が盛んで、争いも日常的だった。伊豆は小田原の北条氏の領地で、政情は比較的安定していた。

また、江戸時代には、「駿河の人は、下駄は後ろから減るが、遠州の人はせっかちで、下駄が前から減る」といわれたらしい。これは駿河の人に、遠州の人に気をつけるように諭す警句で、静岡県の成立後も、戦前まではささやかれていたようだ。

遠州の人がせっかちであることを示すことばに、「やらまいか」という言葉がある。とにかくやってみよう、という意味の言葉で、下駄が前から減ることに直結する。だから、遠州からヤマハや河合楽器、ホンダやスズキが誕生したものと思われる。トヨタにしても、創業した豊田佐吉は遠江国の出身である。

スズキ本社
スズキ本社(写真=Niba/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons

遠州の人の特徴が生じた背景には、気候も関係していると思われる。遠州は風が強く、遠州灘は波が荒い。その点が駿河とはだいぶ違う。駿河の気候は非常に穏やかで、それを象徴するのが静岡市である。南に穏やかな駿河湾が開け、三方を山に囲まれ、まるで陽だまりのような土地である。

浜松はいわゆる「遠州の空っ風」が吹き、雪が降ることもあるが、静岡は日本列島が大寒波に襲われているときでも、滅多に雪は降らない。だから、遠州の「やらまいか」を文字って「やめまいか」といったりする。余計なことをやらずに、現状維持でいいではないか、という精神を表している。「やらまいか」と「やめまいか」は、そのまま「駿河物乞い」と「遠州泥棒」に呼応する。

県の真ん中に東日本と西日本の境がある

このため、複数の静岡県出身者に聞くと、部活動の成績などは、運動部から文化部にいたるまで、西部すなわち遠州の学校のほうがはるかに実績を上げている。私自身、親が遠州の出身で、親戚も遠州に多いので、実感としてわかる。

 だが、西部(遠州)が、東部(駿河)よりも平均年収が高いわけでもない。静岡県が発表している「令和2年度しずおかけんの地域経済計算」の地域別一人あたり所得では、浜松市を含む西部地域は307万5000円、静岡市を含む中部地域が317万5000円、となっている。

駿河の人は気張らない余裕が功を奏しているのか、これといって産業もないのに暮らし向きは豊かなのである。

駿河と遠州の違いは、両国の国境が東日本と西日本の分かれ目だと考えれば、わかりやすい。だから食べ物でいえば、そばのつゆは、静岡市以東は関東風の黒いかけつゆが多く、浜松では薄口しょうゆの澄んだタイプが多い。うなぎのかば焼きも、東部は関東風の蒸したものが多いのに対し、浜松など西部では、関西風の蒸さないものが中心になる。

要するに、東部は東日本、西部は西日本なのが静岡県なのである。「オール静岡」が強調される理由はここにあり、それを実現するのが困難な理由も、やはりここにあるということだろう。

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