不調な私を救った観客の野次

ネガティブな応援とされるブーイングや野次もまた、スポーツを楽しむ上でのエッセンスとなる。私がこう考えるのは、現役時代の経験が大きい。

大学時代のとある試合で、私はゴールキッカーを務めていた。その日はすこぶる調子が悪く、トライ後のコンバージョンがほとんど決まらなかった。チームがトライを重ねても、その後のキックは外し続けた。確か4回目のキックのときに、観客席から野次が飛んだ。

「お前はいつになったら決めてくれるんや」

怒りが滲む声色のそれが、ボールをセットしてまさにゴールを狙うときに耳に入り、内心カチンときた。

決めないといけないことくらい私だってわかっている。だけど、からだが思い通りに動いてくれない。キックを蹴るときの感覚が微妙に狂っていて、その修正がままならない。だが、その野次でスイッチが切り替わった。

負けず嫌いの性格に火がついて、「決めてやろうやないか」と熱り立った。ひとりの観客の怒りともどかしさが詰まったその野次が、あくまでも結果的にではあるが私の背中を押した。そこから調子を取り戻し、以後のキックを立て続けに決めることができたのだ。

キックの目標
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「いつ決めるんや」にはリスペクトがあった

よくよく思い起こせば、あのときの野次にはリスペクトがこめられていた。怒りが爆発しただけのストレス発散のために発せられたのであれば、あんな言葉遣いにはならない。「やめてしまえ」や「お前にはセンスがないんじゃ」といったもっと尖った物言いになったはずだ。

でもそうではなかった。「お前はいつになったら決めてくれるんや」には、いつかは決めてくれるという期待が込められている。そのイントネーションからはユーモアすらうかがえ、その証拠に野次を耳にした周囲の観客からはクスクスと笑いが起こっていた。

あの野次はあくまでも期待の裏返しとして発せられたものだった。

当時グラウンドに立つ私は気恥ずかしさが先立ち、野次に込められた期待とユーモアを汲み取る余裕がなかった。だが、いまとなればそれがわかる。期待が大きいがゆえに矢も盾もたまらずつい口をついたあの野次には、抑制の効いた柔らかな手触りがあって、そこには紛れもなくリスペクトがあった。