6選手を無期限登録停止の中の唯一の光
このとき、全日空スポーツの社長を務めていたのは長谷川章だった。彼は若狭得治の側近で、後に全日本空輸の副社長となる。長谷川はチームを残すためにできることはすべてやれと部下に命じた。サッカー協会会長は新日本製鐵の社長でもある平井富三郎だった。
平井は通産省事務次官を務めた経済界の実力者である。たまたま新日本製鐵の秘書室に全日本空輸の秘書室の女性の大学の同級生がいることが分かった。
長谷川は彼女を通じて平井との面談をとりつけた。そして穏便に事を収めるよう、専務理事の長沼健への口添えを頼んだ。
4月17日、日本サッカー協会は理事会を開き、試合を放棄した木口、唐井、栗田、小池、大竹信之、崔海鎮の6選手を無期限登録停止、全日空SCは3カ月の公式戦出場停止処分となった。8月から始まる2部リーグ開幕に全日空SCの処分は明ける。表面上は1部からの降格扱いである。
ただし、現場は穴だらけだったと塩澤は振り返る。
「15、6人しか選手がいないんですよ。バックが足りないからフォワードの選手をコンバートしたりしましたね」
唯一の光が、ホルヘだった。日本に到着した日、読売クラブとの練習試合が予定されていた。塩澤が軽い気持ちで出てみるかと声を掛けるとホルヘは頷いた。
「もうラモス(瑠偉)がびっくりしちゃった。こんな奴がいたんだっていう顔をしていたんです。ホルヘが一人いるだけで、結構できちゃうんじゃないかって思いましたね」
すべてはアルゼンチン選手の力を発揮させるために
86‐87年シーズン、全日空SCの選手登録、31人のうちホルヘなど8人が新規登録選手となった。4分の1が入れ替わったことになる。
監督の塩澤が心を砕いたのは、ホルヘたちアルゼンチン選手の力を十分に発揮させることだった。
「私の家の道路を挟んで反対側にあった一軒家を借りたんですよ。そこに彼らを住まわせて、朝飯と夕飯はうちの女房が作りに行った。日常生活が不安だとグラウンドに集中できないじゃないですか」
塩澤の自宅がある神奈川県藤沢市は、海が近く開放的な空気が流れている。この雰囲気をアルゼンチン人選手たちは気に入った。ホルヘたちは塩澤の妻の買い物に付き合い、率先して荷物を運んだ。塩澤の次男が通う中学校のサッカー部の練習に参加することもあった。
彼らの家族がアルゼンチンから来ると寮に泊まった。そして塩澤の妻は、彼女たちからアルゼンチン料理を教わった。アルゼンチン人はアサドと呼ぶ、バーベキューを好む。アルゼンチン風の味付けで肉を仕込み、庭先で塩澤が焼いた。
「ホルヘの家族たちを連れて、(藤沢から近い)島や箱根に行ったりしてね。ぼくのやり方はだいたいそんな感じなんですよ」
塩澤はふふふと楽しそうに笑った。練習場までは塩澤が運転するホンダのワゴンに同乗させた。
「ぼく、英語も何もできないからね。よかったのは、ホルヘが一生懸命、日本語を覚えようとしたこと。練習場に行く車の中で、一日に3つずつ(日本語の)単語を教えることにした。そしてぼくもスペイン語を3つ覚える」
当初は選手をやりたいと売り込みに来た日系パラグアイ人を通訳に雇ったが、ホルヘの日本語が上達すると不要となった。
86‐87年の日本リーグ2部は16チームが東西2つのブロックに分けられていた。前期のそれぞれ上位4チームが後期は上位リーグに進出する。全日空SCは前期リーグで東ブロック5位。後期の下位リーグ・東ブロックで4チーム中、2位に終わっている。