「色々と整理する中で最初にサッカー部が切られた」

サッカーを諦めるという選択肢はなかった。

「(コーチだった)大久保(賢)さんのところに、永大産業という会社が選手を探している、みんな連れてこないかという話があった。それで(大久保を含めて)7人で行ったんです」

永大産業は材木業から始め、住宅建設に手を広げた。住宅が「三種の神器」の1つとされた高度成長期を背景に規模を拡大した。サッカー部を始めたのは創業者、深尾茂だった。

本拠地は木材加工工場のある山口県熊毛郡平生町に置かれた。瀬戸内海に突き出た室津半島西側、瀬戸内海に沈む美しい夕陽で知られる静かな街だ。

「最初は県リーグの2部か3部です。山口県サッカー協会もこの地域から日本リーグに上げたかった。それで県内のカップ戦に優勝して入れ替え戦に勝てば(県リーグ)1部という特例を作った。(名古屋相互銀行から移った日本リーグ)1部の選手が6人もいたら圧倒的に強いわけです」

72年に日本リーグ2部、翌73年に1部に昇格した。塩澤は大学時代からの古傷である右膝の調子が悪く、75年に現役引退、76年には監督となった。

ところが77年、永大産業の経営が悪化、サッカー部は廃部となった。塩澤にとっては二度目のクラブ消滅となる。

サッカーボール
写真=iStock.com/baytunc

「もう会社が非常に厳しい状態になってやめざるをえないというか、色々と整理する中で最初にサッカー部が切られた。もう寝耳に水って感じでね。なんでうちがっていう感じですよ。全員で大阪の社長に会いに行ったりしました」

明治大学サッカー部の指導を始め、全日空から招集

選手たちには、感情にまかせて汚い言葉を使わないようにと釘を刺した。

「結局、どうにもならなかった。(日本リーグ1部リーグの)東芝とかヤンマーに連絡をとって選手を獲ってもらった」

みんなばらばらになっちゃったね、と呟いた。社員であった塩澤は永大産業に残り、系列会社で働いた。しかし、サッカーがなくなった会社に執着はなかった。妻の実家のある藤沢市で「塩澤スポーツ」を始めることにした。

「人に使われるのが嫌になったんだよね。サッカーと流行だったテニス用品を置いた運動具屋。そうしたら(古河電工の)川淵(三郎)さんとか鎌田(光夫)さんとか来てくれてね。本当にありがたかったな」

スポーツ用品店経営と平行して母校、明治大学サッカー部の指導を始めた。

「1年目で(関東サッカー連盟)2部から1部に上げた。そして翌年、1部で2位になった。それを見て全日空が呼びに来たんです」

日本リーグ1部で成績が低迷、2部降格が決まっていた時期だった。栗本の後継監督として声を掛けられたのだ。

「全日空の試合は1試合も見たことがなかった。情報は何もない。(全日本空輸が)ちゃんとやるんだったらいいでしょうって引き受けることにしたんです」