兼家が明子の父の左遷を首謀した可能性
では、源高明の左遷を仕組んだ藤原氏はだれなのだろうか。
史料等から知ることはできないが、兼家の長兄の伊尹だという説はある。この変の1年後には伊尹が摂政になっており、弟の兼家も中納言に出世するなどしたのは、兼家が安和の変に関与したからだとする説もある。
もっとも、そもそもこの変は藤原氏が仕組んだものではなく、守平親王の即位は、村上天皇の遺志だという主張もある。
だから、断定は難しいが、もし兼家が首謀者のひとりであったのならば、高明の娘の明子が兼家を恨み、呪詛して命を奪おうと考えるのも、ありえない話ではないのかもしれない。
ただし、『光る君へ』では、詮子が明子を引きとった明確な理由はなく、むしろ復讐を誓った明子が兼家のもとに近づいてきたような描き方だったが、それは違う。
明子は父が太宰府に流されたのち、叔父の盛明親王の養女となっていたが、親王が亡くなったので、従弟の詮子のもとに引きとられた。明子の母の愛宮が、兼家の異母妹だったからである。
平安時代における「呪詛」とは
それでは、源明子はなぜ呪詛にこだわったのか。現代人の感覚からは想像しにくいが、医学や薬剤が発達していなかった当時は、死霊や生霊といった物の怪が人に取り憑いて、祟りをなすと考えられ、とりわけもっとも重い病気、すなわち死に至る病は、原因はそこにあると思われていた。
たとえば、清少納言も『枕草子』に「病は、胸。物の怪。あしの気。はては、ただそこはかとなく物食はれぬ心地(病気といえば胸の病気。物の怪によるもの。脚気。最後に、なんとなく食欲がない気分の状態)」と書いている。この時代、病気の主要な原因は「物の怪」だったのである。
だから、『源氏物語』でも、光源氏の正妻である葵上が死亡したのも、彼女が亡くなったのちに妻になった紫上が危篤状態に陥ったのも、年下の光源氏と恋愛関係が結ばれた美しい六条御息所の生霊や死霊に取り憑かれたせいだとされている。
そうしたら、事実、瀧内公美が出演者の発表時に寄せたコメントを見ると、「制作者のみなさまからは、役柄のヒントは源氏物語でいう“六条御息所”と、現段階では言われております」と記されていた。
無実の父親を殺された恨みを、自身が生霊となって果たす。その発想自体は、平安王朝の女性がもったとしても不思議なものではない。