「意見」と「事実」を混同する日本人の悪い癖
これらの結論は、1つの「意見」である。3人いれば、3人の意見があるだろう。そして、それでいいのだと僕は思っている。
でも、概して日本人は意見の食い違いが苦手だ。「それは違う」「あんたは間違っている」と議論を通り越したケンカになりがちである。それは「意見」を「真実」とはき違えているから起きる現象だ。世の中にはたった1つの「事実」しか存在しないと、正解主義の日本人は考えがちなのだ。
世界に自分しかいなければ、たった1つの事実をよりどころに生きていけばいい。でも現実は違う。3人いれば3通りの、5人いれば5通りの意見が存在する。であれば、そうした意見の違い、ズレにこそ、物事の問題解決のヒントが隠されていると考えるべきだろう。
建設的な議論とは、満場一致の「正解」を得ることではない。むしろ互いの立場や事情による「意見」の違いを知ったうえで、どうすれば私たちが幸福になるのか、どうすればよりマシな世の中になるのかを、みんなで考える作業なのだ。
どんな情報を扱うかによって結論は変わる
僕はいまテレビで政治評論家としてコメンテーターの仕事をしている。そこで困るのが「現首相の通信簿をつけてください」というような依頼だ。多方面から考察を示す時間的余裕があるならいざ知らず、番組中のほんのわずかな時間で、視聴者に納得してもらえる通信簿をつけるのは難しい。
そもそも現首相の通信簿といっても、なにを基準にするのかで評価は変わってくる。外交手腕を見るのか、国内政治力を見るのか、あるいは政治家としての立ち回りやアピール力を見るのか。
また、絶対評価なのか、相対評価なのか、その違いも大きい。絶対評価の場合、どうしても評価する側の主観に頼らざるをえない。一方、歴代首相との比較ということになれば、評価基準はもう少し定まるかもしれない。
どんな情報に光を当てるかで結論は変わる。長引く円安をどう評価するかというような問題も同様だ。