SLDやゲーム障害の“発見”

近代において猖獗しょうけつをきわめる勤勉の倫理は、奴隷制社会において存在せず、この点における精神病者の多くの不認識(結果的には寛容)を招来したようである。自らをゼウスと信じた医師、世界を支えるアトラスと信じた男、中指を曲げると世界が崩壊すると恐れた男の随想的記載はあるが、妄想は近代のごとく大問題とならなかった。

……メランコリア(憂鬱)は優れた人間を襲うという認識はヒポクラテースにあり、必ずしも負の価値概念でなかった。華麗な過渡というべきものに喝采したローマ世界においても、それによってまた一種の狂気の不認識があった。たとえばローマ皇帝の過半数がきわめて逸脱した人間であった。

(中井久夫『新版 分裂病と人類』東京大学出版会、2013、106頁)

過去には病気とみなされようのなかった精神疾患もあります。たとえば限局性学習症(Specific Learning Disorder、SLD)は、読み書きが支配階級の占有物だった頃にはほとんど気付かれなかったでしょうし、2018年に更新された国際疾病分類(ICD-11)で登場したゲーム症(Gaming Disorder、ゲーム障害とも)は、そもそもコンピュータゲームの文化が誕生しない限り、病名がつくことも研究が進められることもなかったでしょう。

ゲームに縛られている人
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現代の患者は中世では英雄だったかもしれない

私たちが病気について考える時、昔も今も病気と判定する基準は変わらないと考えがちです。身体の病気についてはおそらくそのとおりで、100年前も現在も肺がんは肺にがん細胞が生じる病気で、痛風は脚に尿酸の結晶ができる病気です。

ところが精神疾患の場合、文化や環境によって病気と判定されるかどうかが変わるのです。さきに挙げたように、限局性学習症は読み書きの存在しない文化では精神疾患たり得ませんし、ゲーム症もゲームの文化がなければ同様です。

社会が進展し、文化や環境が変わり、人間に期待される能力や行動が変わると、新たに求められるようになった能力や行動が不十分な人が精神疾患と認定され、治療や支援の対象となってきた──そうした側面が精神医療の歴史には多分にあります。

精神医療に携わっている私は、「あの入退院を繰り返している患者さんは、中世の戦場では英雄だったのではないか」と連想したくなる時があります。数百年前なら良い仕事に就き、尊敬され、結婚し、子を残していただろう人が、現代においては精神疾患に該当し、なかなか良い仕事も見つからず、生きていくことに疲弊していることはしばしばあるように思われるのです。