先進国のほうが有病率が高い理由
社会契約や資本主義や個人主義の進展と照らし合わせても、精神疾患の領野の拡張はやむを得ないように思われます。『分裂病と人間』には「古代ギリシアでは勤勉は猖獗をきわめていなかった」とありましたが、現代はその限りではありません。
現在のアメリカ精神医学会の診断基準であるDSM-5ではたった2週間の抑うつでうつ病の診断基準を満たしますが、その2週間の抑うつが社会生活を行き詰まらせるほどアメリカ社会は慌ただしく、個人の自由と自己責任が背中合わせで、勤勉で効率的な生活が絶えず求められるのでしょう。
実際、本記事で紹介した精神疾患の有病率を先進国と開発途上国で比較すると、先進国のほうが有病率が高くなっています(*10)。
人間の世代交代が遅く、(生物学的な)行動形質がなかなか変わりきらないことを考慮するなら、精神疾患の有病率の上昇は生物学的な問題の増大を示しているというより、先進国の文化や環境が私たちに課している課題の大きさや、さまざまな行動特性や状態が許されなくなっている度合いや、それらを掬い取る精神医療の普及状況、等々を反映しているとみるほうが自然でしょう。
(*10)Kessler RC, Ormel J, Petukhova M et al: Development of lifetime comorbidity in the WHO world mental health surveys. Arch Gen Psychiatry. 68(1): 90–100, 2011
精神医療は現代社会の問題を解決しているのか
精神医療の普及は、その「勤勉が猖獗をきわめる」現代社会の問題を解決しているのでしょうか。
1人の臨床医としての私は、ある程度までは解決している、と答えたいです。早期診断・早期治療がメンタルヘルスを守り、個人を守る防波堤のひとつとして機能しているのは間違いありません。現代の精神医療や福祉が担っている役割を軽視すべきではないでしょう。
とはいえ、問題も山積しています。
第一に、精神医療が普及してきたのをいいことに、この社会は、人間にますます競争を促しますます勤勉に働かせ、ますますこき使うことに頬かむりをしていないでしょうか。また、精神疾患の生物学的側面が解明されていくなかで、精神疾患が個人の生物学的な問題へと矮小化され、職場や社会の問題とみなしにくい雰囲気が生まれてしまっていないでしょうか。