「『安もの買いの銭失い』だ」
矢野は、さすがに業者に文句を口にした。
「こら! なんでステンレスのスプーンの値が上がるんか」
そう言う矢野に、業者は言い返した。
「石油代が上がって段ボール代が上がったし、運賃も上がるんだから、原価が上がるのは当たり前だ。文句があるなら、買ってもらわんでもいい」
70年代のオイルショックと日本の小売業の変化によって、移動販売は急速に廃れ、仲間たちのほとんどが廃業した。
そんなとき、矢野は店頭である光景を目にした。
4、5人の客がいろいろ商品を見ているが、これがなかなか決まらない。
〈あー、早く買っていってくれないかな〉
矢野がそう思ったとき、その中のひとりが言った。
「ここでこんなもの買っても『安もの買いの銭失い』だ。帰ろう」
そう言って、みんなを連れて帰ってしまった。
「いいもん売ってやる!」
矢野に衝撃が走った。
「安もの買いの銭失い」
この言葉が、一番こたえた。
原価70円までのものを100円で売るのだから、たしかに品質に限界はある。
矢野は、泣き言を吐いた。
「もう、この商売、やめようか。『安もの買いの銭失い』って、今日も3回言われた」
そう言いつつも、矢野はやめなかった。
むしろ、矢野の心の中にはメラメラと悔しき炎が燃え上がった。
〈ちくしょう! どうせ儲からんのだし、いいもん売ってやる!〉
それからというもの利益を度外視し、原価を思いきり上げた。原価70円で抑えるところ80円にまで上げた。時には98円のものを100円で売った。
たちまち、客の目つきが変わるのが、矢野にはわかった。
「わっ、これも100円! これも100円!」
客の素直な反応が、矢野にとっての励みになっていった。
〈自分の儲けを考えていたら、商売なんてできん。ワシは、客が驚く姿が見たかったんじャ。客が喜んでくれればそれでええ。その分、ワシは売って売って儲けを出すんじャ〉
矢野商店は、あっというまに全国の同業者の中で一番売れる店になっていった。
と同時に、じょじょに多くの従業員を抱えられるようになっていった。
「矢野さんとこは、商品がいい」
評判が評判を呼び、大手スーパーからも引き合いがくるようになった。
しかし、売上と商品数が増えるにつれ、従業員は疲弊していった。