ダイソー創業者の故・矢野博丈さんは1972年3月、家庭用品を販売する「矢野商店」を立ち上げた。なぜ矢野さんは「100円均一」を始めたのか。作家・大下英治さんの書籍『百円の男 ダイソー矢野博丈』(祥伝社文庫)より、100円ショップ・ダイソーの原点となったエピソードをお届けする。
「この商売は、いずれ潰れる」
昭和47年(1972年)3月に「矢野商店」を創業した。が、矢野は弱気だった。
〈この商売は、いずれ潰れる〉
そのため、長男の寿一、次男の靖二には、先に謝っていた。
「ワシは大学出させてもらったのに、すまんのォ。家には借金がようあるけぇ、おまえらは中学で勘弁してくれ。中学出たら、就職してくれ。中卒で神戸製鋼に就職すれば、月給3万円だというど」
「トラック1台の売上高で日本一になろう」
モノ1個を100円、200円で売る商売だ。年商1億円なんて、想像しただけで夢のような世界なのだからしょうがない。
〈絶対、無理じゃろうけど、目標は持ってもいいだろう〉
年商1億円という夢のような目標を掲げたが、確実に実行できる目標も持った。
「今、日本には500円均一とかで走りまわるキャラバンが、300台くらいおるじゃろう。でも、ワシのトラックが300台の中で一番売れているはずじャ。会社としては、うちは田舎にあるし、負けるけえ、トラック1台の売上高で日本一になろう」
矢野は、会社の規模を大きくすることに興味などなかった。
仮に、年商100億円、300億円という大規模の目標を掲げたなら、トラックの台数を増やし、安いものを大量に仕入れ、粗利を追求していく道を選ばざるを得ない。
そうではなく、矢野は、「一番売るトラック売店」という身近な目標を選んだ。
この目標をはたすために、客に喜んでもらえる原価を高くしたよい商品を売り、だれよりも働き、客に来てもらうためにチラシをたくさんつくってポストに入れる。
自分たちの目の前にあるやれること、それをコツコツと積みあげてさえいけばいい。なにも無理までして、自分たちを窮地に陥れる心配はないのだ。