ダイソー創業者の矢野博丈さんは社員を叱れない経営者だった。細かいことをくどくど言うのは恥ずかしい、しつこいのは恥だと思っていたという。だが、伊藤雅俊・イトーヨーカ堂(現セブン&アイ・ホールディングス)名誉会長との出会いで一変した。作家の大下英治さんの書籍『百円の男 ダイソー矢野博丈』(祥伝社文庫)より2人のエピソードをお届けする。

「うちは100円でも高級品を売っているんです」

矢野の100円均一という商売へのプライドは、誰よりも高く、強固だった。

勉強会などへ出かけていったときのことである。

そこに集まった経営者同士、名刺交換をする。

「ダイソーの矢野と申します」

そう言って、「100円均一」と書かれた名刺を差し出す。

とたんに、相手は嫌な顔をした。

〈あっ、100均の安もの売りか〉

相手は、とりあえず、少しくらいは会話をしようと努力する。

「広島ですか。修学旅行で行きました」

が、もう話したくないという表情をしている。

そんな相手に、矢野は言った。

「100円でも、あなたが思っている安もの売りとは違うんですよ。同じ100万円でも、100万円の車は安ものだけど、100万円の家具は高級品ではありませんか。うちは100円でも高級品を売っているんです。ボロじゃ、安ものじゃ、言わないで欲しい」

表と裏の100円硬貨
写真=iStock.com/frema
「うちは100円でも高級品を売っているんです」(※写真はイメージです)

イトーヨーカ堂の伊藤雅俊名誉会長から学ぶ

この商売で生き残りたいから、よりいい商品を目指してやってきたプライドを見せてやった。

それでも、矢野の真意は理解されず、100円均一をバカにしていたのであろう。

そう言われた相手は、ただ笑って矢野を見ていた。

矢野は、経済界の先輩たちから多くのものを学ばせてもらった。あるとき、イトーヨーカ堂の伊藤いとう雅俊まさとし名誉会長と会う機会を得た。

 

伊藤は、大正13年(1924年)4月30日生まれ。東京出身。横浜市立商業専門学校(現・横浜市立大学)卒。卒業後、当時の三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に就職する。

入社後すぐに、陸軍特別甲種幹部学校に入校し陸軍士官を目指したが、敗戦を迎え三菱鉱業に復帰。昭和21年(1946年)、三菱鉱業を退社し、母親ゆきと兄の譲が経営していた羊華堂ようかどう洋品店を手伝うことになる。