「あなたは社会のために何をやったの?」

「やることは全部やった。もうこれ以上やることはない。この先、10年ものさばっているわけにはいかない」

40代半ばにはそう思っていた。しかし中途退社するのは嫌だった。腰掛ではなく、マッキンゼーを勤め上げたという認識があったからだ。そのために「75歳ルール」を提唱したのである。

マッキンゼーを出て何をするのか。「ウチの社長をやってくれ」「後継者になってくれ」というお誘いはたくさんいただいた。しかし、企業経営をするつもりは毛頭なかった。

「あなたは金稼ぎもうまいし、コンサルタントとして立派だけど、社会のために何をやったの?」

どういう文脈だったか覚えていないが、カミさんから40代の頃にこう言われたことがある。

学生時代から「日本を変えたい」という気持ちがあった。カミさんもそれを知っていた。だから、普段、仕事には口を出さないのに、背中を押してくれたのだろう。

次に何をやるのか、自分が一番よくわかっていた。

だからマッキンゼーで学んだ問題解決の方法やマーケティングの手法を政治に応用できると考えて、80年代後半から、当時の中曽根康弘首相に衆参ダブル選挙をアドバイスしたりしてきた。経営書だけではなく、社会改革をテーマにした本も書いてきた。『悪魔のサイクル』『加算混合の発想』『世界が見える、日本が見える』『新・国富論」等である。

1989年に『平成維新』を出版して、その運動体である「平成維新の会」を92年に立ち上げた。すべて引退を前提にした行動だった。

実は引退の準備には10年以上かけている。早めに後継者を見つけて職責を譲ってきた。東京の支社長は10年やった後、横山(禎徳 元東京支社長 現在は一橋大学大学院国際企業戦略研究科客員教授)にバトンタッチして、邪魔にならないように大阪に引っ込むことにした。

アジア太平洋地域会長という肩書をもらって韓国や台湾、マレーシアの事務所の初代所長も務めたが、それぞれ別の人間に後任を任せた

あらゆる下準備を済ませて、1994年12月を以てマッキンゼーを定年退職した。75歳ルールの最初の適用者だった。

(次回は《元祖「平成維新」(1)。1月14日更新予定)

(小川 剛=インタビュー・構成)