34年ぶりに最高値を更新し、一時4万円の大台を突破したことが話題となっている日経平均株価。新NISAを始める人も多く、投資熱は高まっている。だが、経営コンサルタントの小宮一慶さんは「私が銀行員になった約40年前の株価は1万円弱で、NYダウも1000ドル弱。その後、ダウは40倍になった一方、日本は2度も7000円台になるなど苦しんだ。日本の現状を踏まえると、今後、景気が上向き続けると考えるのは早計だ」という――。
見出しに踊る「4万円台」の文字
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34年ぶりの最高値

東京株式市場では日経平均株価が、1989年12月末につけた3万8915円の最高値を34年ぶりに更新したことが大きな話題となっています。その後、一時4万円も突破しました。

これらのことを見るたびにバブルやその前の日本経済を実際に経験している人間としては、ある種の感慨を覚えるとともに、少し考えさせられるものがあります。

私は、約40年前の1981年に東京銀行(現・三菱UFJ銀行)の銀行員となりました。名古屋支店勤務でしたが翌年に為替課長と“賭け”をしたのをよく覚えています。その頃は、日経平均株価がちょうど1万円を超える水準で、ニューヨークダウは1000ドルをやはり超える直前でした。どちらが先に大台を超えるかで1000円の賭けを行ったのです。どちらが勝ったかは忘れましたが、日経平均もNYダウもそのレベルの相場だったのです。

バブル期の日本

その後、すさまじいバブルが日本で起こりました。1985年9月にそれまでの円安を是正するために、ニューヨークのプラザホテルにG5(先進5カ国)の蔵相、中央銀行総裁が集まり会議が開かれました。米国の膨大な貿易赤字を是正するため、それまで240円程度だったドル・円レートを是正する決定が行われたのです。いわゆる「プラザ合意」です。当時、米国に留学中だった私は、みるみるうちに円高が進むのに驚いた記憶があります。1年ほどで100円ほど円高に振れたのです。

急激な円高で、当時は輸出主導だった日本経済は大きな打撃を受けるとの懸念から、日銀は金利を下げるとともに通貨供給量を拡大しました。ちょうどこのころ、外資の日本進出が進みかけていた時期で、外資、とくに金融機関は都心にふさわしいビルを探しましたが、彼らの目にかなうのは東京・港区のアークヒルズくらいしかありませんでした。

最初は、東京駅周辺の土地が再開発のために買い進められましたが、そこに金融緩和での余剰資金が流れ込み、土地が値上がりするので、特に八重洲側では、「地上げ」が始まりました。それがすぐに都内全域に広がり、周辺都市に拡大したのです。土地バブルが発生したのです。「23区の土地価格で全米の土地が買える」とまで言われました。それが株式やゴルフ会員権にまで広がるのに多くの時間を要しませんでした。

バブル期には、都心のみならず東京近郊の住宅地の地価が短期間に4倍にはね上がったり、小金井カントリー俱楽部の会員権が4億円をつけたりと、異常なバブルが発生しました。「一億総投資家」と言われ、日経平均株価が最高値をつけたのもその頃でした。

企業も余った資金を利用して、三菱地所がニューヨークのシンボルの一つロックフェラーセンターを買収、青木建設がカリフォルニアの超名門ゴルフ場のペブルビーチを買収しました。他にも、JALがニューヨークの名門ホテル、エセックスハウスを買収するなど、世界中を日本のバブルマネーが席巻しました。

余談ですが、私が勤めていた銀行で中小の不動産会社に融資していた担当者から聞いた話だと、現金で数億円持ってきてほしいと言われて持っていくと、その場で売主に現金でお金が支払われたそうです。そして、そこに居合わせた関係者に、その現金から百万円ずつ「祝儀」ということで配られたというのです。銀行の担当者にもくれるというのを必死で断ったという話を聞いたのもその頃です。

89年暮れの日経新聞には、「翌年(90年)は4万円」の記事が、最近よりももっと大きく踊っていました。しかし、バブルはしょせんバブルですから、90年には2万円台まで日経平均株価は下落し、その後34年間89年の最高値を抜かなかったのです。

それどころか、バブル崩壊による金融危機などがあり、日経平均株価は2度7000円台まで落ちました。そして、バブル期に買収した世界の名門資産は、今も日本企業が保有しているところはほとんどありません。バブル崩壊とはそのようなものです。バブル崩壊後の荒波を越えて、やっと日経平均がバブル期の最高値を抜いたというのが昨今なのです。